宮地吉久
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宮地 吉久(みやじ よしひさ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏、後に山内氏の家臣。
略歴[編集]
通称は五郎右衛門。土佐国長岡郡大津の天竺氏の一族といわれ、大津郷に所領を持っていた。天竺氏が長宗我部国親に滅ぼされると国親に仕え、長岡郡大津や種崎、吾川郡諸木や高岡郡戸波郷などに所領を持っていた[1]。
吉久は武将というより官僚で、長宗我部元親に仕えて主に行政面で力を発揮し、元親時代の天正年間の検地では検地奉行に任命されて手腕を発揮した。文禄の役に参加した功績により帰国後、吾川郡木塚や吉原など6か所において加増を受けている。元親の死後は盛親に仕えるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親が改易となり、新たな土佐国主として山内一豊が入国する際、一豊の弟・康豊の命令を受けて土佐国内の鎮撫を命じられて任務を果たしたことから、山内氏から戸波において1町5反の土地を与えられている[2]。
文禄の役で既に60歳余りだったといわれるので、恐らく山内氏の家臣になった時点で70歳は超えていたと考えられる。