大鳥圭介
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の軍人、官僚、外交官である。正二位。勲一等男爵。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1833年4月14日に播磨国赤穂郡赤松村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)に生まれた。幼名は慶太郎。父親は大鳥直輔、母親は節子。代々医者の家系。1845年には祖父が学んだ閑谷学校に入学。漢学、儒学、漢方医学を学んだ。この学校での学習は後の漢学の教養の礎となった。1849年に中島意庵に預けられ、西洋学に興味を持つ。1852年に緒方洪庵の適塾で西洋の学問を学び、1854年に江戸に出た。
江戸[編集]
江戸に出て4年以上がたったある日、江川塾から勧誘を受けて講師となる。尼崎藩や徳島藩にも仕官した。この間は、西洋の本の翻訳をしつつ、門下生に教授していた。
1860年に、周囲からの勧めもあり、松本藩士の長女と結婚。1865年には長男も生まれている。
軍人[編集]
旗本として幕臣に就く。1867年には、歩兵奉行として幕府陸軍の近代化による育成や訓練にあたる。
鳥羽・伏見の戦いで敗戦した後も榎本武揚らと共に交戦継続を主張。江戸を脱走して、土方歳三らと共闘して交戦した。最終的に榎本武揚と合流して蝦夷に渡り、蝦夷島政権樹立を宣言。しかし、軍艦開陽丸を失うなどして、全体的に設備が不足。粘り強く戦うも、1869年5月18日五稜郭で降伏して投獄された。
明治維新[編集]
榎本武揚、大鳥圭介などの処遇について木戸孝允などから厳罰を求める声が上がった。そんな中、黒田清隆の釈放運動などもあり、1872年1月8日に特赦により出獄。黒田の援助により、北海道開拓使5等出仕に就任。その後、吉田清成に見込まれ、大蔵小丞に就任。欧米各国を訪問して外国債券を募り、財政再建にあたった。
1874年に帰国。同年9月29日に陸軍省四等出仕を命じられるも陸軍大佐を経て3ヵ月半で退官。1875年1月17日に工部省四等出仕となる。
1882年には工部大学校の校長に就任。工部美術学校の校長も兼務している。元老院議官を経て、谷干城の後任として第三代学習院院長、華族女学校校長にもなり、学校教育に当たった。22年清国公使として赴任。のち朝鮮公使を兼任。
明治43年(1910年)冬、食道癌に倒れて療養するが、翌明治44年(1911年)6月15日に死去。享年79[1]。
影響された人物[編集]
喜劇役者の鳳啓助の芸名の由来は、大鳥圭介だったという。幕末に榎本武揚と函館の五稜郭にたてこもった大鳥圭介に心酔し、芸名とした。芝居好きは大鳥圭介と鳳啓助とで共通だという(読売新聞 昭和54年4月14日夕刊)。
両人に縁故はなく、鳳は大正生まれなので、当然ながら大鳥と面識はない。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 星亮一 『大鳥圭介 幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者 』 中央公論新社〈中公新書〉、2011年4月25日初版。ISBN 978-4-12-102108-3
- 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)