大姥局
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大姥局(おおうばのつぼね、大永5年(1525年) - 慶長18年1月26日(1613年3月17日))は、徳川秀忠の乳母である。「岡部局」(おかべのつぼね)とも言われる。岡部貞綱の娘。河村重忠の妻。子に川村荘八(岡部荘八)、岡部長起。会津藩主の保科正之は徳川秀忠と大姥局の侍女の神尾静(のち浄光院)との間の子である。
経歴[編集]
- 1579年(天正7年)、徳川家康に三男・長丸(徳川秀忠)が誕生したとき、乳母(養育係)に抜擢された。
- 1608年(慶長13年)、秀忠の将軍就任の御礼と、秀忠30歳を記念し、所縁の池上本門寺に五重塔を寄進した。
- 1613年3月17日(慶長18年1月26日)、89歳で逝去と伝えられる。法名・正心院。
人物[編集]
- 1613年(慶長18年)、大姥局が死の床に就いた時、秀忠が見舞い望みは何でも叶えると言ったとき、大姥局は、大殿(家康)の言うことをしっかり守るようにと、念を押すのみであったという。
- 大姥局は、身分の低い者たちを集め自らしゃもじを持ち食事を振舞うことを楽しみとしていた。本多正信にしゃもじを持つことをからかわれたとき、大姥局は、食べることに困る三河の苦しかった日々のことを忘れたことは一度も無い。欠かさず食事が出来ることの有難さを知るからこそ自分でしゃもじを持つのじゃ、と答えた。本多正信に対し、その方は今はすっかり立派になってしまったが、鷹匠から身を興した昔のことをすっかりお忘れになられたか、と言うと正信は返す言葉が無かったとされる。