大友義統公軍記

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大友義統公軍記(おおともよしむねこうぐんき)とは、関ヶ原の戦いの際に九州で行なわれた石垣原の戦いに関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著書の奥書に「慶長六年八月二十五日、真玉の庄より、田北弥太郎、柴田左京進殿後家、妙因様」とある。つまり成立は1601年8月25日、著者は豊後国国東郡真玉庄(現在の大分県豊後高田市)に住む田北弥太郎で、柴田左京進の後家である妙因という尼からの要請を受けて著したということになる。

田北は石垣原の戦いに参戦しており、成立年代も合戦があった翌年のため、この軍記はかなり信頼性が高いと思われる。田北氏は大友氏の家臣で、弥太郎はこの著書を書くことになった動機について、「妙因が度重なる要請をしてきた」とある。また、「私は痛手を負い、片輪になりました」と書いているため、恐らく弥太郎は石垣原の戦いでかなりの重傷を負ったのではないかと思われる。ただ、弥太郎はなぜか自分の名前を軍記には登場させておらず、田北氏で登場しているのは田北彦六という人物であり、この彦六と弥太郎の関係については不詳である。

妙因についても不詳であるが、柴田氏は大友氏の家臣であり、恐らく石垣原の戦いに参加していたのではないかと推定される。後家であり、度々軍記の執筆を求めてきたことから、恐らく左京進は戦死したのではないかと思われる。ただ、左京進の名前も著書には登場せず、柴田氏で登場するのは柴田小六、柴田太郎である。小六については大友氏の人質を多く助けながら戦死したとして「勇敢に働いた」と賞賛されており、この小六は恐らく妙因の近親者であると思われる。

別称は『豊後国立石合戦物語』(ぶんごのくにたていしかっせんものがたり)。

内容[編集]

全1巻。石垣原の戦いについての事情を、当時の参戦者が記した軍記である。

大友義統が朝鮮出兵の失態により、豊臣秀吉の命令で改易されたところから始まっている。この軍記では大友義統の旧臣として石垣原で活躍した吉弘宗之に対して特に賛美するところが見える。例えば、関ヶ原の戦いの際に義統が西軍に属そうとした際、吉弘は諫言して東軍に属すように進言した、とされている。しかし聞き入れられず、大友軍は豊後国に進撃して黒田如水との戦いとなる。いわゆる石垣原の戦いだが、黒田軍1万騎余りに対して、大友軍はわずか800騎余りであったにもかかわらず、一時は黒田軍に対して優勢を保った。この際の吉弘の活躍が特に描かれ、そして自害したことを惜しむように書かれている。吉弘は義統が自身の諫言を聞き入れなかった時点で最早「運は尽きた」と悟っており、かといって主君を裏切ることもできなかったので、自分が壮烈に戦死することによって自身の諫言が正しかったことを思い知らせようとしたのだという。吉弘は最初から戦死するつもりで戦い奮戦し、その奮戦のために深入りしすぎて自害したという。

石垣原の戦いは黒田軍2637人、大友軍は531人の死者を出したとある。著者の弥太郎はこの戦いを「立石ノ合戦」と称している。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]