大内輝弘
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大内 輝弘(おおうち てるひろ、永正17年(1520年) - 永禄12年10月25日(1569年12月3日))は、戦国時代の武将[1]。大内家の一族。別名は氷上太郎[1]。大内輝弘の乱を起こした人物として知られる。
生涯[編集]
大内政弘の次男・大内高弘の子[1]。大内義隆と対立して豊後大友家に寄食し、その庇護を受けて所領と家臣を与えられている[1]。
永禄11年(1568年)から大友宗麟と毛利元就の北九州における勢力争いは苛烈になり、永禄12年(1569年)に輝弘は大友家の家臣・吉岡長増の策略を受けて宗麟から数千の兵力を与えられて周防吉敷郡秋穂浦に上陸し、大内家の旧臣をかき集めて元大内家別邸の築山屋形に入った[1]。しかし毛利元就の反攻を受け、山口を脱出して富海の茶臼山において自害した[1]。享年50。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9