呂母

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呂 母(りょ ぼ、? - 天鳳4年(17年11月)は、中国王朝時代の呂母の乱における女性の反乱指導者。子に呂育

生涯[編集]

呂家は現在の山東省山東半島の根元にある青島にあった海曲県豪族で、呂母とは「呂家のお母さん」を意味するいわゆる歴史用語で、彼女の本名はわかっていない。

呂母には呂育という一人息子がおり、呂母は女丈夫だったが一人息子である呂育に対しては甘かったとされ、そのため調子に乗って呂育は大変素行が悪く、素行不良で何度か犯罪に問われかけた際には常に呂母が金を使ってもみ消してしまった。呂育は誰彼構わず女性に手を出すプレイボーイだった。そして遂には自分の県の県宰(県令)の杜先の女性に対しても手を出したため、遂に県宰も捨ててはおけずに呂育を逮捕する。普通なら死罪まではいかずとも重罪だったが、新の王莽は仁政を誇示するために恩赦令を出すことが少なくなく、その恩赦で無罪になることを恐れた県宰によってあっという間に死刑を命じられて処刑された。

呂育という一人息子を失った呂母は激怒し、復讐のために立ち上がることを決意。亡夫と関係のあった侠客・徐次子と計画を練る。しかし県宰も有力豪族である呂家をこの際早く始末しようとしたため、呂母は徐次子や多数の食客を引き連れて山東半島のあたりで暴れまわる海賊になった。その際に呂母は家にあった屋敷や田地を売り払って仲間を増やしていった。次第に呂母の軍勢は兵力を増し、いつしか呂母は将軍と呼ばれるようになった。そして天鳳4年(17年)の8月、海賊集団を率いて海西県の県宰を襲撃して杜先を捕縛して斬首した。

復讐を果たした呂母はそれで安堵したのか、それからわずか3か月後に死去した。

呂母が結成した海賊は1万人を数えており、新しいリーダーには徐次子がなり、彼は樊崇と組んで赤眉軍を結成して赤眉の乱を起こして新王朝を滅亡に追い込むことになる。