呂育
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呂 育(りょ いく、? - 天鳳元年(14年))は、中国の新王朝時代の人物。母親は呂母[1]。
生涯[編集]
呂家は現在の山東省の山東半島の根元にある青島にあった海曲県の豪族で、呂育は呂母の一人息子だったという。母親の呂母は女丈夫だったが一人息子である呂育に対しては甘かったとされ、そのため調子に乗って呂育は大変素行が悪く、素行不良で何度か犯罪に問われかけた際には常に母親が金を使ってもみ消してしまった。
呂育は誰彼構わず女性に手を出すプレイボーイだった。そして遂には自分の県の県宰(県令)の杜先の女性に対しても手を出したため、遂に県宰も捨ててはおけずに呂育を逮捕する。普通なら死罪まではいかずとも重罪だったが、新の王莽は仁政を誇示するために恩赦令を出すことが少なくなく、その恩赦で無罪になることを恐れた県宰によってあっという間に死刑を命じられて処刑された。
呂育という一人息子を失った呂母は激怒し、復讐のために立ち上がって2年余の後に呂母の乱と称される反乱を起こして県宰・杜先を殺害し、この小さな反乱が新崩壊の遠因にまでつながった。
脚注[編集]
- ↑ 呂母とは歴史用語で、彼女の正式な名前はわかっていない。