半田素麺

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半田素麺(はんだそうめん)は、徳島県つるぎ町の半田地区(旧半田町)で作られる素麺である。太めで腰が強いところが特徴であり、半田素麺音頭に「コシの強さにノドが鳴る」と歌われている。

歴史[編集]

半田素麺の起源には諸説ある。『半田町誌』によると、天保時代、小野浜港より撫養方面へ運航していた平田舟の船頭が、家族の自給用や副業として麺を作り、製麺の方法が今の奈良県磯城郡三輪町(現・桜井市)から淡路島板野郡鳴門を経由して、旧半田町に伝わったとされる。

文献の初出は、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』[1]寺島良安著、1712年頃)である。阿波土産の「索麺(サフメン)」が紹介されている。『日本山海名物図会』(平瀬徹斉著、長谷川光信挿画、1754年[2]の「大和三輪索麺」に「又阿波より出るもの名産なり。三輪そうめんにおとらず」と書かれている。

当時の半田村(現徳島県つるぎ町半田地区)には吉野川の川湊の小野浜湊があり、素麺の原料となる小麦、塩、油などを入手しやすかった。加えて素麺作りは農家の副業として適していたこと、吉野川からの自然風が素麺に向いていたことから、半田村に素麺が根付いた。当時は脇町(現美馬市脇町)、鳴門町(現鳴門市)、三加茂町(現東みよし町)、板野町(現徳島県板野郡板野町)でも素麺は作られていたが、その後は半田地区だけが残っている。しかし、半田地区においても1873年明治6年)の時点では、生産量は56tと少なく、製粉は伊川谷の水車で行っていた。

1928年昭和3年)、素麺を半田町(当時、徳島県美馬郡)の新しい産業にしようと考えた逢坂佐馬之助町長や北室直一を中心として『半田町素麺組合』が作られた[3]。その時点で組合員は38戸であったが、翌年の生産量は225tに増えた。半田町主催で品評会を毎年行い、昭和初期の品評会では、麺線の細いものが優れているとされていた。1930年(昭和5年)には技術者の藤本を小豆島から呼んで指導を依頼し、技術と生産性を向上させた。
昭和27年(1954年)に「半田町手延素麺産地協議会」が再編され、商品名を「半田手延べそうめん」とし[4]商標を「半田糸」で統一すること、原料や包装用紙を一括購入することなど商品規格の統一化が図られた。さらに機械設備を一新した。

つるぎ町半田には多数の製麺所があるが、製麺所によって塩加減、水加減、熟成時間、乾燥時間等が異なるため、麺の味わいが微妙に異なる。

課題[編集]

産地全体の戦略が定まっていないことが課題とされる。後継者難、従業員の高齢化が言われている。事業主がそうめん産業の活性化を個別経営の問題のみと捉え、半田町の経済振興の中軸をなす地域的課題であるとことの認識が不十分と述べている[4]。伝統と革新の問題を内包している。

The乾麺グランプリ2018[編集]

2018年8月開催の「The乾麺グランプリ1028」(全国乾麺協同組合連合会など主催)で「半田手延べそうめん協同組合」(徳島県つるぎ町)の「すだち香る阿波尾鶏と山芋の冷たい半田そうめん」がグランプリを受賞した[5]。半田手延べそうめん協同組合は初出場であった。

2019年小野製麺から出品したメニュー「和牛冷しゃぶのおろしぶっかけ半田めん」がそうめん部門の第1位となった[6][7]

脚注[編集]