匿名A
匿名A[1][2]は、研究不正が疑われる生命科学論文を匿名掲示板で指摘する人物のハンドルネームである。匿名であるためそのハンドルネームが公に言及されることは少なかったが、2015年の年初に起きた論文大量不正疑義事件においては、多くのマスメディアがそのハンドルネームを使った報道を行うことになった。
論文大量不正疑義事件までの歴史的経緯[編集]
2000年頃から、生命科学の分野では多くの論文捏造事件が毎年のように報告されるようになった[3]。事件の発覚や推移にインターネットの匿名の書き込みが決定的に関与するケースが増加するようになり[4]、2ちゃんねるなどの匿名サイトで書き込みを行なう人物の存在に必然的に関心が集まるようになった。
不正告発者が自殺した大阪大学生命機能研究科の論文捏造事件[5][6]を受け、日本分子生物学会は2007年頃から論文捏造問題の解消を目指した若手教育シンポジウムを研究倫理活動として毎年開催するようになった[7]。しかしながら、その若手教育を担当していた東京大学分子細胞生物学研究所教授の研究室から、捏造が疑われる不自然な酷似画像を含む論文が20報以上見つかることが、2011年年末から2012年年初にかけて2ちゃんねるの生物板の「捏造、不正論文総合スレ4」や「捏造、不正論文総合スレ5」で立て続けに指摘された。11jigenはその指摘内容をまとめたブログを作成し[8]、2012年1月上旬に東京大学に告発した[9]。告発された教授は数ヶ月後に引責退職することになった[10]。日本分子生物学会は深刻な大量の論文捏造問題を抱えていた当事者に研究倫理の若手教育を行なわせていたことを2012年年末の学会において謝罪することになった[11]。
2013年年初には、ディオバン事件が毎日新聞やFridayの報道により大きく取り上げられることになった[12]。不正が行われた臨床研究論文に関わっていた国立大学医学部教授の研究室からは、基礎研究論文においても不自然な酷似画像を含む論文が多数見つかることが2ちゃんねるの生物板の「捏造、不正論文総合スレネオ1」や「捏造、不正論文総合スレネオ2」で2013年3月頃に立て続けに指摘された。11jigenはその指摘内容をまとめたブログを作成し[13][14]、2013年5月に千葉大学や熊本大学に告発した。「捏造、不正論文総合スレネオ2」では、2012年にノーベル賞を受賞した京都大学教授の論文にも不自然な酷似画像を含む論文が見つかることが指摘され、11jigenはその指摘内容をまとめたブログを作成した[15]。
2013年の日本分子生物学会の年会長を務めることになった大阪大学教授は、年会準備のためにウェブサイト「日本の科学を考える」を設立し、その中に論文捏造問題を議論する「捏造問題にもっと怒りを」というトピック[16]を作成した。2ちゃんねるなどの匿名掲示板で論文不正の指摘をしている人に対して、匿名で構わないので意見を書き込んで欲しいとそのトピックやSNSで呼びかけた。2013年6月下旬に、そのトピックの掲示板において、匿名掲示板で医学論文の不正を指摘しているという書き込みが「匿名A」というハンドルネームで行なわれた。以後、匿名Aは、このトピックで3年以上に渡り数千回の書き込みを行なうことになり、2ちゃんねるでも匿名Aと名乗るようになる。2013年7月に朝日新聞が前述の東京大学分子細胞生物学研究所教授の研究室の大量論文不正の内部調査状況をスクープし朝刊一面トップで報道した[17]直後には、その東京大学教授の指摘を匿名掲示板で行なったと名乗る「ミスターX」や、11jigenの書き込みも「捏造問題にもっと怒りを」の掲示板で行なわれた。2013年年末の日本分子生物学会では、文部科学省職員やマスメディアも招いた研究倫理問題のシンポジウムが三日間に渡り行なわれた[18]。
2014年年初にはSTAP細胞の論文不正事件が発生し、全国紙各紙の一面トップを何ヶ月にも渡り何度も飾るほどの大騒動となった。STAP細胞に関する報道では、2013年年末の日本分子生物学会の研究倫理シンポジウムに関わった多くの大学教授がコメントを提供した[19]。
2014年12月には、STAP細胞論文の筆頭著者であった小保方晴子が理化学研究所を自主退職し、東京大学分子細胞生物学研究所教授の研究室の大量論文不正事案の調査も告発から約3年の期間を経て終了した[20]。
匿名Aの論文大量不正疑義事件は、このように、生命科学分野の大きな論文捏造事件が一段落した直後に勃発した。
論文大量不正疑義事件[編集]
匿名Aは、2014年の年末から2015年の年初にかけて、「捏造問題にもっと怒りを」のトピック[16]のコメント欄で、日本の研究機関から1996年〜2008年にNatureなどの国際誌に発表された約80本の医学系の論文において、不正な人為的加工や流用などが疑われる画像データが掲載されていることを立て続けに指摘した。SNSなどで情報が拡散し[21]、2015年1月9日には多くの大手新聞社や通信社がこの指摘を報道した。毎日新聞[1]、朝日新聞[22]、産經新聞[23]、日本経済新聞[24]、日刊ゲンダイ[25]、時事通信[26]は匿名Aのハンドルネームを用いた報道を行なった。読売新聞[27]と共同通信[28]は、匿名Aのハンドルネームを用いずに、匿名の投稿者や匿名の人物という表現に留めた。文部科学大臣下村博文は、2015年1月13日の閣議後記者会見において、2015年1月6日に同様の趣旨の匿名告発が、文部科学省に対して文書で行なわれたことを明らかにした[29]。これを受け、東京大学や大阪大学のほか、九州大学などが論文の予備調査を開始した[30][31]。m3.comによると、文部科学省から匿名Aの指摘の確認を指示されたのは次の24機関であった[32]。
- 札幌医科大学
- 東北大学
- 東京慈恵会医科大学
- 東京大学
- 東京医科歯科大学
- 慶應義塾大学
- 日本大学
- 金沢大学
- 名古屋大学
- 京都大学
- 京都府立医科大学
- 大阪大学
- 大阪医科大学
- 近畿大学
- 関西医科大学
- 徳島大学
- 九州大学
- 杏林大学
- 立命館大学
- 広島大学
- 長崎国際大学
- 宮城県立病院機構宮城県立がんセンター
- 国立感染症研究所
- 国立病院機構京都医療センター
2015年5月19日に、衆議院の科学技術・イノベーション推進特別委員会においてこの件について質問が行われ、87本の指摘のうち「64本の論文、17機関、研究者33名分」については不正の事実が確認されず「23本の論文、10機関、研究者16名分」については調査中であることが文部科学省の政務官から報告された[33]。2016年11月までに、匿名Aの指摘した論文について研究不正が行われたと公に認めた研究機関は一つも存在しない。ただし、金沢大学は、指摘された論文のうち1本を、2015年9月4日に撤回した[34]。京都大学[35]、札幌医科大学[36]、慶応大学[37][38]、東京大学[39][40][41]および東北大学[42]は、調査の結果、一部あるいは全部の指摘された論文について研究不正がなかったことを公表した。九州大学[43]と大阪大学[44]については、調査結果の公表はなされていないものの、研究不正はなかったと内部調査で結論づけたことがマスコミによって報道された。京都府立医科大学の研究者は、自らのホームページで自主的に実験ノートを公開し、指摘について回答した[45]。
2015年1月上旬においては、指摘された項目の過半数あるいは8割ほどは悪意のある行為によって作られたのだろうという推測や、世界三大研究不正といわれるSTAP事件よりもはるかにスキャンダラスかつ重大な事件に発展する可能性があることも報道されていた[46][2]。
Ordinary_researchersが新たに22本の論文不正の告発活動を行った直後の2016年10月に、参議院議員の櫻井充は、参議院議長への質問主意書において、東京大学は匿名Aの論文大量不正疑義事件に係る調査の内容を全く明らかにしていない旨の指摘を行なった。また、調査責任者は被告発者と親しい医学部の研究者が務めたという情報を明らかにした[47]。
特徴[編集]
- 名称や活動内容が国際的に言及されることはほとんどない。11jigenや世界変動展望や2016年に活動を開始したOrdinary_researchers[48]がScience誌などに取り上げられるのとは対照的である。
- 研究不正問題に関する論文や講演には、匿名Aの活動内容に触れながらも、匿名Aという名称を使わないものが多く存在する。例えば、白楽ロックビルや黒木登志夫はそのウェブサイト[49]や著書[50]で世界変動展望や11jigenの名称は使うものの、匿名Aの名前は一度も使っていない。一方、用いられる場合もある[51][52]。
- これまでに匿名掲示板で疑惑を指摘した論文の数は111報だと書き込んでいる[53]。
関連項目[編集]
出典[編集]
- ↑ a b [生命科学論文:「画像不正」ネット投稿 阪大や東大確認へ] 毎日新聞 斎藤広子 2015年01月09日
- ↑ a b 【超STAP事件】日本の学会は捏造論文だらけ!大スキャンダルに発展か 「むしマガ」Vol.272 2015年1月11日
- ↑ 研究不正への対応はこのままで良いのか岡山大学 田中智之 2016年6月10日
- ↑ 「研究不正」をどう防ぐか 片瀬久美子 2013年08月23日
- ↑ 1‐5‐9.研究ネカトで自殺者をだすな! 白楽ロックビル 2016年8月22日
- ↑ 阪大教授らの論文に「疑問」 共同執筆者の1人が自殺 朝日新聞 2006年09月08日
- ↑ 若手教育シンポジウム 日本分子生物学会
- ↑ http://blog.goo.ne.jp/bnsikato
- ↑ 記者会見「東京大学分子細胞生物学研究所旧加藤研究室における論文不正に関する調査(中間報告)」の実施について 東京大学 2013年12月26日
- ↑ 朝日新聞 2012年04月05日
- ↑ [1] 緊急フォーラム「研究不正を考える -PIの立場から、若手の立場から-」全文記録(2012.12.11)(PDF 330KB)
- ↑ 日本医事新報 No.4808 2016年6月18日号 ディオバン事件―問題点と教訓を考える
- ↑ http://komuroissei.blogspot.com/
- ↑ http://kim-mitsuyama-shokei.blogspot.com/
- ↑ http://yamanaka-shinya.blogspot.com/
- ↑ a b 捏造問題にもっと怒りを 日本の科学を考える
- ↑ 東大43論文に改ざん・捏造疑い 元教授グループ 朝日新聞 瀬川茂子 2013年7月25日
- ↑ 理事会企画フォーラム「研究公正性の確保のために今何をすべきか?」6セッション全文記録公開日本分子生物学会 2013.12.3~5
- ↑ [NHKスペシャル 調査報告 STAP細胞 不正の深層] 2014年7月27日
- ↑ 記者会見「東京大学分子細胞生物学研究所・旧加藤研究室における論文不正に関する調査報告( 最終 )」の実施について 平成26年12月26日
- ↑ 酷似する画像を含む生命科学論文がインターネット上で大量に指摘される 日本の科学と技術
- ↑ 論文70本不正画像か 「匿名A」が指摘、東大など確認 朝日新聞 2015年1月9日
- ↑ ネットで論文画像の「類似」、「匿名A」が指摘 東大や阪大などの生命科学系約80本 産経新聞 2015年1月9日
- ↑ 東大・阪大などの論文80本に不正疑い ネットで指摘日本経済新聞 2015/1/9
- ↑ 阪大など80本超の論文に不正疑惑 共著者に「東大病院長」が日刊ゲンダイ 2015年1月10日
- ↑ ネットで画像流用指摘=東大、阪大など論文80本 時事ドットコム 2015/01/09
- ↑ 阪大と京大の研究者の論文、画像切り貼りの指摘 読売新聞 2015年01月09日
- ↑ ネットに生命科学系論文不正疑い 東大や阪大などの80本共同通信 2015年1月9日
- ↑ 下村博文文部科学大臣記者会見録 文部科学省 2015年1月13日
- ↑ 阪大:「ネットで不正指摘」…関連論文の予備調査を開始 毎日新聞 2015年2月3日
- ↑ 不正の疑いで論文7本を予備調査 九州大 産経新聞 2015年2月6日
- ↑ 名大や東京医科歯科大、不正指摘受け本調査へ m3.com 2015年2月9日
- ↑ 第189回国会 科学技術・イノベーション推進特別委員会 第3号 衆議院 2015年5月19日
- ↑ [2] THE JOURNAL OF BIOLOGICAL CHEMISTRY VOL. 290, NO. 36, p. 22310, September 4, 2015
- ↑ 研究論文における画像の使い回しなどのインターネット上での指摘について 京都大学医学研究科 2015年1月22日
- ↑ 過去の研究活動に係る指摘について 札幌医科大学 2015年5月1日
- ↑ ウェブサイトでの論文画像指摘について(調査報告とご説明) 慶應義塾大学医学部 2015年5月18日
- ↑ ウェブサイトでの論文画像指摘について(再実験結果のご報告) 慶應義塾大学医学部 2015年7月28日
- ↑ インターネット上で指摘のあった論文の画像データに係る調査結果について 東京大学 2015年7月31日
- ↑ 東大、論文画像「不正行為なし」 調査結果を発表日本経済新聞 2015年8月1日
- ↑ 東大「論文に不正行為ない」 朝日新聞 2015年8月1日
- ↑ インターネットで指摘された論文の画像データに係る審査結果について 東北大学 2015年9月15日
- ↑ <九州大>論文5本に画像取り違えミス「不正行為なかった」 毎日新聞 2015年3月18日
- ↑ 大阪大:論文疑惑 予備調査27本の調査打ち切り 毎日新聞 2015年4月8日
- ↑ JBC論文の画像に対する指摘に関して
- ↑ 小保方さん“退場”も…論文コピペ疑惑が「大物」にも飛び火 日刊ゲンダイ 2015年1月9日
- ↑ 東京大学の研究不正の調査のあり方に関する質問主意書 参議院 2016年10月12日
- ↑ University of Tokyo to investigate data manipulation charges against six prominent research groups ScienceInsider, Dennis Normile 2016年9月20日
- ↑ [3]「1‐4‐7.日本の私的告発サイト」『研究倫理 白楽ロックビルのバイオ政治学』
- ↑ 研究不正-科学者の捏造、改竄、盗用中公新書
- ↑ [4] IDE大学セミナー「研究倫理教育の挑戦 -不正防止から能力構築へ-」 研究不正に対する個人的な感想と個人的な取り組み -現場とお上の感覚のズレ- 北海道大学 中川真一、 京都大学楽友会館 2016年08月26日
- ↑ [5] 東京大学 早野龍五 Twitter 2015年
- ↑ 匿名A氏がこれまでにネット上で指摘した”類似画像を含む論文”111報 日本の科学と技術