八戸城

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八戸城(はちのへじょう)とは、現在の青森県八戸市内丸1-14-49にかつて存在した日本である。現在は三八城公園(みやぎこうえん)となっている。

概要[編集]

現在の本八戸駅のすぐ南西側に存在した平城である。

江戸時代前期の寛文4年(1664年)、当時の南部氏の藩主である南部重直が盛岡で死去した。重直には継嗣が無かったので、その所領である10万石は盛岡8万石、八戸2万石に分けられた上で相続することとされ、盛岡藩は重直の実弟の南部重信が、八戸藩が末弟の南部直房が相続することになった。直房は八戸に入ると築城工事を開始し、本丸を中心にして土塁などを設けて寛文6年(1666年)に完成させた。以後、八戸藩は南部氏が10代の支配を経て明治維新を迎えている。

八戸藩自体には特記するような事件は存在しない。ただ、2万石の小藩ながら藩政は結構優良だったようであり、「一に小南部(八戸)、二に相良(相良藩)」などと言われて、八戸の城下は大いに繁栄したといわれている。その優良な藩政のためか、第8代藩主の南部信真が継嗣無く死去した際、本来なら無嗣断絶のはずだったが薩摩藩島津重豪の子・南部信順が養子入りしている。薩摩藩は70万石を超える大藩であり、普通はわずか2万石の小藩に養子に入るなど考えられないが入封しているのでかなり優良だったのがうかがえる(一説に家老野村軍記による相撲力士の勧誘説がある)。

現在は本丸跡が公園として整備され、梅と桜の名所として八戸市民の憩いの場となっている。ちなみに公園の名前・三八城とは八戸城を意味する。城の遺構はほとんど残っていないが、公園の南側にかつての表門があった大きな朱塗りの薬医門が遺存しており、往時をうかがわせている。現在は南部自治会館の表門として使用されており、園内には城の由来を刻んだ城跡碑も建立されている。

アクセス[編集]

  • 本八戸駅から徒歩で5分。

外部リンク[編集]