八十島助左衛門
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八十島 助左衛門(やそじま すけざえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。
略歴[編集]
三成に仕えた経緯は不明だが、『後編薩藩旧記雑録』では慶長3年(1598年)6月25日に島津氏から銀子1枚、鉄砲1挺の代銀15匁が贈られており、同年の11月24日に島津氏の家老に対して文書を発しているのが確認できる。このことから、三成の家臣として島津氏との取次を担当していたものと思われる。
『関原軍記大成』によると、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田軍の武将の1人として従軍し、戦況がたけなわの際に島津義弘の陣に2度、支援の要請に赴く使者を務めた。だが、慌てていたので馬上にあったまま主命を伝えたことから、島津豊久ら島津の将兵は軍礼を失する行為だとして激怒し、八十島を罵った。そして、石田勢が東軍勢力に攻められて壊滅寸前になると、自ら馬に乗って陣から駆け出したので味方は何をするのかと見ていたが、八十島は馬に鞭を当てて戦場から逃げ出したので、味方の多くは愛想が尽きて失笑したという。
その後の行方は不明である。