俊継尼
ナビゲーションに移動
検索に移動
俊継尼(しゅんけいに、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康の叔母に当たる。
生涯[編集]
父は松平清康。母は不詳。兄弟に松平広忠。甥に徳川家康がいる。
西条吉良義堯の次男で、東条吉良持広の養子となった吉良義安に嫁いだ。義安との間に1男1女をもうけており、長男は吉良義定である。夫の義安は永禄12年(1569年)11月に34歳の若さで没した。当時、今川領は甲斐国の武田信玄による駿河侵攻で大混乱になっており、戦火を避けるために俊継尼は義定を連れて本国の吉良荘に戻っている。家康の叔母に当たることから、家康からは庇護下に置かれ、父の清康の時代からの家臣である鳥居忠吉の世話を受けて瀬戸の椿屋敷に住むことを許された。
天正7年(1579年)1月20日から1月29日にかけて、家康は鷹狩を吉良の瀬戸で行っている(『家忠日記』)。この際に俊継尼と対面したといわれ、その遺児である義定が16歳に成長していることを知り、出仕して家臣になるように保証したと言われている。後に義定は家康から取り立てられ、旗本となって所領も与えられている。
俊継尼のその後の行方については不明である。