何夔
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何 夔(か き、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の政治家。字は叔龍(しゅくりゅう)[1]。父や母の名は不明。叔父は何衡。子は何曾。孫は何劭・何遵。曾孫は何蕤・何嵩・何綏・何機・何羨。
生涯[編集]
豫州陳郡陽夏県(現在の河南省太康県)の出身[1]。戦乱を避けて淮南に移り、ここで袁術の招聘を受けるが拒絶する[1]。帰郷して曹操の招聘を受けて司空の属官となる[1]。曹操は職務で誤りを犯した属官をよく杖で殴ったが、何夔はその恥辱を受けた際に自害をすることを覚悟して毒薬を所持していた[1]。
何夔は曹操に認められて地方の県令・太守を歴任し、反乱平定などに功績を挙げて中央に召喚され、東曹掾になり、さらに曹操が魏王になると尚書僕射に任命される[1]。曹丕が魏の王太子になった際に少傅に任命され、涼茂と共に曹丕の補佐に当たる[1]。220年に曹丕が魏の文帝になると、成陽亭侯に封じられて300戸を賜った[1]。