伍瓊

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

伍 瓊(ご けい、? - 190年)は、中国後漢末期の武将徳瑜(とくゆ)[1]

生涯[編集]

汝南郡の出身。城門校尉であった[1]。後漢に仕える重臣だが、董卓政権を掌握するとそのまま董卓の家臣として重用される[1]袁紹と対立した董卓がその首に懸賞金をかけようとした際、袁紹と内通していたために周毖と共に反対し、懐柔策である渤海太守に任命するように提言した[1]。また董卓に荀爽韓馥劉岱孔伷張咨張邈といった人材を次々と推挙した。ところが190年に推挙した人材の多くが反董卓連合軍に加担したため、激怒した董卓によって殺害された[1]

三国志演義』にも史実通り登場する。

脚注[編集]

  1. a b c d e 小出『三国志武将事典』P12

参考文献[編集]