中村里

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

中村 里(なかむら さと、慶応4年4月1日1868年4月23日) - 昭和20年(1945年11月13日)は、日本明治時代から昭和時代にかけての女性福澤諭吉の長女。旧名は福澤 里(ふくざわ さと)。

略歴[編集]

福澤諭吉の長女で、初めの名は(さん)だったという。ところが「おさんどん」と三が重なることを嫌がって、自ら里と改名した[1]

遊戯のかたわらにいろはを習い始め、明治7年(1874年)に兄・福澤一太郎福澤捨次郎らと共にイギリス人について英語を習い、そして同じ頃に福澤家に寄宿していた三田藩主・九鬼隆義の妹のあいから習った(『福澤諭吉子女之伝』)。

明治12年(1879年9月から明治13年(1880年12月まで、幼稚舎に通っていた模様である。明治22年(1889年)か明治23年(1890年)頃に慶應義塾の教員であったマリア・ヴォン・ファーロットから英語やピアノを習った。里は琴やピアノに堪能だったとされ、英語も得意で容易に覚えたという[1]

里が生まれた2年後に慶應義塾に入学していた化学者中村貞吉と明治16年(1883年)に結婚し、その間に中村愛作中村壮吉の2人の息子に恵まれた。福澤諭吉にとって愛作は初孫だったことから特に可愛がっていたというが、明治28年(1895年)に貞吉は死亡し、わずか12年で結婚生活は終焉し、以後、里は諭吉の下で庇護された。諭吉はまだ若い里の将来を案じて、再三にわたって再婚するように勧めたが、里は遂に応じなかった[1]

昭和20年(1945年)11月13日に死去[1]。77歳没。

高橋誠一郎によると、福澤諭吉の子供の中で一番よくその性質を受け継いでいたとされ、そのために「女福澤」と呼ばれていたという[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e 『福澤諭吉事典』 ISBN 9784766418002。P544

参考文献[編集]