万寿姫

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万寿姫(ますひめ、宝暦11年8月1日1761年8月30日) - 安永2年2月20日1773年3月12日))は、江戸時代中期の徳川将軍家女性江戸幕府の第10代征夷大将軍徳川家治の次女。尾張藩世子徳川治休婚約者

生涯[編集]

父は第10代将軍・徳川家治で次女。母は御台所五十宮(心観院。直仁親王の王女)。同母姉に千代姫、異母弟に徳川家基徳川貞次郎がいる。

千代姫が夭折したのに対し、万寿姫は成長したので家治から特に寵愛され、七夜祝や色直し、宮参り、髪置きなどの諸行事が特に丁重に行われた。明和5年(1768年)、家治の命令により尾張藩主・徳川宗睦の世子である治休との縁組が決められ、3月3日には老中から徳川治保徳川重倫らに内々に伝えられ、3月27日に松平武元松平輝高を通じて宗睦に万寿姫の降嫁が伝えられ、宗睦は治休を連れて直ちに家治の下に出仕して拝謁し、3月28日には降嫁を賀して総出仕が行なわれている。

4月23日に結納が執り行われ、2日後には群臣が老中に拝謁して大名は樽肴を献上するなど、婚儀に向けた段取りが次々と行なわれた。

しかし、生母の五十宮が明和8年(1771年)に没したのがショックだったのか、この頃から万寿姫は体調を崩しがちになる。安永2年(1773年)に入ると病状が一段と悪化し、2月6日には治休から様子伺いの使者が派遣されるなどしたものの、病状は悪化の一途をたどり、2月20日に13歳で死去した。

家治は愛娘の死を嘆き悲しみ、鳴物を10日、普請を5日停止するように命じた。3月5日に東叡山に葬送され、3月6日に春性院で法会が行なわれ、この間の葬儀責任者は田沼意次が務めている。3月25日に乗台院(じょうだいいん)の諡号が与えられた。

婚約者の治休も万寿姫の死のショックのためか、後を追うように4か月後に没している。