ワイマール共和国
ワイマール共和国(ワイマールきょうわこく、ドイツ語: Weimarer Republik)とは、1918年に発足し、1933年に成立したドイツ国(ナチス・ドイツ)の成立によって事実上崩壊した共和制国家である。ヴァイマル共和政の英語読みであり、その他にはヴァイマル共和国などとも訳される。ドイツ共和国とも呼称されているが、ヴァイマル共和政下における国号としては否定されている。また、ドイツにはヴァイマールという都市があるが、首都はヴァイマールではなく、ベルリン。
概要[編集]
成立[編集]
1918年に当時の皇帝だったヴィルヘルム2世が退位したことで、「ドイツ社会民主党(SPD)」と「ドイツ共産党(KPD)」による主導権争いが起こったが、社会民主党が独断で共和制宣言を行ったことで、社会民主党が主導権を握る事となった。1919年にドイツ共産党のリーダーであるカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが1月ゼネストに便乗し革命を起こしたが失敗しリーダーである両名は惨殺された。同年11月にはコンピエーニュの森で休戦協定が結ばれ、ワイマール共和国は正式に連合国に降伏した。
インフレーションの進行[編集]
ドイツ帝国時代に大量に発行された戦時の借金の返済やドイツ軍として兵となっていた兵隊の復員費などでワイマール共和国政府はインフレーションに苦しんでいた。増税を行おうとしたが右派勢力からの強い反対があり、インフレが進んでいくことで右派勢力からも左派勢力からも政府を攻撃された。街では共産主義者と右翼の元軍人らが銃撃戦を繰り広げ、多くの死傷者が出た。政府はインフレ打開のために紙幣を大量に発行したが、経済はさらに混乱しインフレーションはさらに進行した。
ルール占領[編集]
フランスなどの連合国が政府に課した賠償金は政府の支払い能力を優に越しており支払いは講和条約直後にすぐに滞った。これをフランスはドイツが支払いをわざと遅らせていると考え講和条約では占領されていなかったルール地域を占領した。この占領に対し政府は「消極的抵抗」を呼びかけた。消極的抵抗はストライキなどで働きを停止させるなどをすることである。この消極的抵抗は国民に受け入れられたが、ドイツ工業の心臓ともいえるルール地域を占領されたことはさらにドイツ経済にダメージを与えた。
世界恐慌[編集]
1929年にはオーウェン・D・ヤングによりヤング案が提案された。この案は1924年に提案されていたドーズ案よりも借金額が緩和された。しかし、1928年あたりからアメリカの資本の引き上げにより暗雲が立ち込めていたドイツ経済は1929年に発生した世界恐慌により完全に破綻した。ヤング案は議会によって採決されたが失業者は350万人にまでのぼり失業率が増大した。まともな策を打てない共和国政府に国民は失望し、消滅寸前だった過激派政党が息を吹き返した。特に、共産党とナチス(NSDAP)が急速に拡大した。両党は互角の状態が続いたが、軍人・資本家・労働者[注 1]の支援を受けたNSDAPが勝るようになった。
滅亡[編集]
1932年7月、国会で第一党を獲得したナチスは首相パーペンに対する内閣不信任案を提出した。この結果パーペン内閣は倒れ、新しい政権を組閣することなった。しかし、第一次世界大戦の英雄であるヒンデンブルク大統領はヒトラーを「ボヘミアの伍長」として毛嫌いし、ヒトラー入閣に反対した。そこでヒトラーはヒンデンブルクの息子と官房長を演説で引き入れた。この二人の説得もありヒンデンブルクはやむを得ずヒトラーを首相に任命した。こうして1933年1月、ヒトラー内閣が成立した。当時のヒトラー内閣でナチス系の大臣はヒトラー含めて3人だけであり、ヒンデンブルク派が大半を占めていた。このため、ヒンデンブルクはナチスを自分たちで制御できると踏んでいたが、ヒトラーはしたたかであった。組閣後ヒトラーは議会を解散し、国会議事堂放火事件を口実にライバルの共産党員を逮捕してナチスの議席数を躍進させた。3月23日、満を持して全権委任法が成立した。これに前後してワイマール憲法は効力が停止され、世界一民主的と称されたワイマール共和国は僅か20年足らずで滅びた。
注[編集]
- ↑ 労働者の支援となると共産党を思い浮かべるが、ナチスも労働者を支援する政策も行っていた。
関連項目[編集]
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