ラズィーヤ

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ジャラーラトゥッディーン・ラズィーヤ(Jalâlat ud-Dîn Raziyâ, ? - 1240年10月)は、北インドデリー・スルターン朝奴隷王朝)の第5代君主(在位:1236年11月9日 - 1240年10月)。奴隷王朝およびデリー・スルターン朝における唯一の女性君主であり、イスラム世界で珍しい女性君主である。

生涯[編集]

父は第3代君主のシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ[1]。イルトゥトゥミシュには多くの子女がいたが、息子の中に人物がおらず、娘のラズィーヤが優秀で女性ながら後継者に申し分ないと見ていた。父が遠征で留守にしている際の国政を彼女に任せていると、申し分なくこなしていたためで、父は1229年にラズィーヤを後継者に指名した[2]

ところが、1236年4月29日にイルトゥトゥミシュが崩御した際、ラズィーヤは臨終の場に居合わせず、居合わせたのは息子のルクヌッディーン・フィールーズ・シャーだった。彼の母・シャー・トゥルカンは父の正妃であり、学者や聖者に多大な支援を行なっていたのでたちまちフィールーズを後継者に推す声が高まり、4月30日には父の生前の指名を無視する形でフィールーズが第4代君主として擁立されることになった[3]

しかし、父が心配した通り無能なフィールーズはたちまち政治を放り出して遊興にふけり、母親はそんな息子を傀儡にして専横の限りを尽くしたので、たちまち北インドで反乱が勃発し、フィールーズがそれを鎮圧するためにデリーから出陣している最中に、ラズィーヤはシャー・トゥルカンに殺されることを恐れて、当時の習慣に従って金曜礼拝に集まった人々に対し助けを求め、自分が有能であることを証明する機会を与えてほしいと訴えた。ある記録によると「男より有能であることを証明できなければ、我が首を刎ねよ」とまで言ったという。この訴えを聞いた人々は王宮を襲撃してシャー・トゥルカンを捕縛した。フィールーズはデリーの秩序を回復させるために帰還したが、間もなく指揮下にあったはずの軍まで裏切ってラズィーヤを支持し、フィールーズは捕縛された。そして、ラズィーヤの命令で殺害され、ラズィーヤが第5代の君主として即位した[4]

当時の記録によると、ラズィーヤは「偉大な君主」「聡明で公正にして寛大」「王国に恩恵を施し、法を執行し、臣民や軍の指揮官たちを保護した」「王に適した資質を全て授かっていた」と高評価が与えられている。しかし、「王であるにふさわしいとして生まれてこなかったため、男たちはそのような資質には価値が無いと見ていた」とある。兄を倒して君主になったことから、自らを擁立したトルコ系貴族に対してかなりの譲歩をせねばならず、彼女はそれを抑えるのに必死だった[5]

彼女は周りに対しては、女性としてではなく、男性と見えるように男装した。男装して象にまたがり、その姿を多くの人々に見せつけて自らの権威を確立し、さらに非トルコ系からなる近臣グループを組織しようとした。ジャマールッディーン・ヤークートはラズィーヤに抜擢された代表格であり、彼女は自らが抜擢した新たなグループによって権力を確立しようとした。しかし、そんな彼女の動きをトルコ系の貴族や軍人らは当然快く思わず、次第に対立を深めるようになる[6]

1239年、ラズィーヤはインド北西部のラホールスィルヒンドで起こった反乱鎮圧に出陣する。ところがこの反乱の鎮圧の最中に、トルコ系の軍隊が反乱を起こしてジャマールッディーン・ヤークートを殺し、ラズィーヤを監禁する挙に出た。この知らせがデリーに届くと、トルコ系の軍人と貴族は直ちにラズィーヤの弟・ムイズッディーン・バフラーム・シャーを第6代君主に擁立し、ラズィーヤは廃位されたも同然となった[7]

ところが、再起を図る彼女は、反乱軍の指揮官だったマリク・アルトゥーニヤ結婚し、その力を借りて王位を取り戻そうと動いた。デリーに出撃したラズィーヤは、ムイズッディーン・バフラーム・シャーを支持する軍勢に撃破され、殺された。彼女の死から100年後に書かれたイブン・バットゥータの記録によると、ラズィーヤは敗れて戦場から逃走する際、彼女の高価な衣服に目がくらんだ農民によって殺害された、と伝えている[8]

ラズィーヤには子供は無かったという。遺体はオールド・デリーのトルコマーン門近くのブルブリーナに葬られた。

脚注[編集]

  1. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115
  2. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.114
  3. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.114
  4. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115
  5. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115
  6. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.116
  7. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.116
  8. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.116

参考文献[編集]

  • フランシス・ロビンソン、月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年