ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー
ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー(Rukn ud din Firuz Shah, ? - 1236年11月9日)は、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第4代君主(在位:1236年4月30日 - 1236年11月9日)。
生涯[編集]
父は第3代君主のシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ。母は正妃のシャー・トゥルカン[1]。
イルトゥトゥミシュには多くの子女がいたが、息子の中に人物がおらず、娘のラズィーヤが優秀で女性ながら後継者に申し分ないと見ていた。父が遠征で留守にしている際の国政を彼女に任せていると、申し分なくこなしていたためで、父は1229年にラズィーヤを後継者に指名した[2]。
ところが、1236年4月29日にイルトゥトゥミシュが崩御した際、ラズィーヤは臨終の場に居合わせず、居合わせたのは息子のフィールーズだった。彼の母は父の正妃であり、学者や聖者に多大な支援を行なっていたのでたちまちフィールーズを後継者に推す声が高まり、4月30日には父の生前の指名を無視する形でフィールーズが第4代君主として擁立されることになった[3]。
当時の記録によると、父が息子に人物はいないと心配した通り、即位したフィールーズは早速快楽にふけって国政を顧みようとはしなくなった。家臣の支持を得るために金品や礼服をばらまくように下賜したり、底抜けに飲み騒いで肉欲にふけり、称号や褒美を乱発して与えたり、酔っぱらったまま像に乗ると、通りにいる民衆などに金貨を放り投げて拾わせたりするなど、乱行の限りを尽くしたとある。母親のシャー・トゥルカンも息子を傀儡にすると、実権を握って後宮にいたかつてのライバルを次々と殺害した。特にイルトゥトゥミシュの年少の息子で、有能で前途を嘱望されていたクトゥブッディーン皇子を盲目にして処刑もしたことは、多くの貴族や民衆から反発を招いた[4][5]。
乱行と専横の限りを尽くす母子に対し、北インド全域で反乱が勃発。フィールーズはこれを迎え撃つために軍を率いてデリーから出陣するが、その間に父から後継者に指名されていたラズィーヤがシャー・トゥルカンに殺されることを恐れて、当時の習慣に従って金曜礼拝に集まった人々に対し助けを求め、自分が有能であることを証明する機会を与えてほしいと訴えた。ある記録によると「男より有能であることを証明できなければ、我が首を刎ねよ」とまで言ったという。この訴えを聞いた人々は王宮を襲撃してシャー・トゥルカンを捕縛した。フィールーズはデリーの秩序を回復させるために帰還したが、間もなく指揮下にあったはずの軍まで裏切ってラズィーヤを支持し、フィールーズは捕縛された。そして、ラズィーヤの命令で「全能なる神の慈悲を受けて」の形で殺害されたという[6]。
息子のアラー・ウッディーン・マスウード・シャーは、後に奴隷王朝の第7代君主となっている。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- フランシス・ロビンソン、月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。