ムイズッディーン・バフラーム・シャー

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ムイズッディーン・バフラーム・シャー(Muiz ud din Bahram Shah, ? - 1242年)は、北インドデリー・スルターン朝奴隷王朝)の第6代君主(在位:1240年 - 1242年)。第3代君主であるシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの息子にあたる[1]

生涯[編集]

1239年から1240年にかけて反乱鎮圧に赴いた姉の第5大君主・ラズィーヤが配下のトルコ系の軍隊の裏切りにより捕らえられて廃位されると、トルコ系の軍人や貴族によって後継者として擁立された。これを認めない姉が逆に反乱軍と手を結んで攻めてくると返り討ちにして、自身の位を不動のものとした[1]

しかし、擁立された経緯からバフラームはトルコ系貴族らの傀儡に過ぎず、摂政にはマリク・イフティヤールッディーン・アイトゥキーンを任命して全権を委譲することを余儀なくされた。だが、マリクは全権を握るとたちまち自らが王のように振る舞い、象を保有して自分の屋敷で日に3度、音楽を演奏させた[1][2]

自身の傀儡としての立場に不満を抱いたバフラームは、マリクの暗殺を計画して成功する。しかし、実権は部下のバドルッディーン・スンカルに握られた。スンカルはバフラームの暗殺を計画するが、これは事前に露見して計画を賛同した者らが殺された[2]

こうして国政の実権を握ったバフラームだったが、1241年にはモンゴル帝国オゴデイにより派遣されたモンゴル軍に攻められてデリーを占領され、多数の住民を虐殺される。バフラームはモンゴル軍に対して応戦するために軍を派遣したが、派遣された軍の中のトルコ人指揮官はモンゴル軍の計略に引っ掛かり、バフラームがモンゴル軍と自分たちを戦わせて共倒れを狙っていると信じ込んでしまい、デリーに戻るとバフラームを攻めだした。デリーの市民らはバフラームを守って3か月間戦ったが、1242年5月にバフラームはトルコ人指揮官によって捕らえられて殺害された[2]

後継者には甥のアラー・ウッディーン・マスウード・シャーが擁立された[2]

このように無能な業績の多いバフラームだが、当時の史料では「内気で格式張らず、王が愛好する豪華な衣装や腰帯や装具、軍旗など、王族を象徴するような物を好まない美徳を備えていた」と意外にも評価されている[1]

脚注[編集]

  1. a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、P116
  2. a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、P117

参考文献[編集]

  • フランシス・ロビンソン、月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年