マリオ・バーヴァ

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マリオ・バーヴァ(Mario Bava、1914年7月31日 - 1980年4月27日)は、イタリアの映画監督、撮影監督。バーバと表記されることもある。別名はジョン・M・オールド(John M. Old)、ミッキー・ライオン(Mickey Lion)。イタリアン・ホラーの父と称される。

経歴[編集]

リグーリア州サンレモ生まれ。父は彫刻家、撮影監督、特殊効果技師のエウジェニオ・バーヴァ。画家を志望していたが、絵で生計を立てることができなかったため、父の後を追うように撮影技師として映画界入りした。ロベルト・ロッセリーニ作品などの撮影を手掛け、レオ・メナルディの『アンナベッラの冒険』(1943年)で撮影監督に昇格した。戦後は『ユリシーズ』(1954年)や『マラソンの戦い』(1959年)など史劇映画の撮影で活躍し、『ヘラクレス』(1958年)はソード&サンダル映画の火付け役となった。また『吸血鬼』(1957年)はイタリア初のホラー映画、『天空が燃えつきる日』(1958年)はイタリア初のSF映画として知られる。

1960年にモノクロのゴシック・ホラー『血ぬられた墓標』で正式に映画監督としてデビューした。モノクロ映画における光と影の使い方が評価され、1963年の『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』や『白い肌に狂う鞭』などカラーのホラー映画も高い評価を得た。その後、史劇やマカロニ・ウエスタン、アクション映画なども手掛けながら、イタリアン・ホラーの巨匠の地位を築いた。1963年のサスペンス映画『知りすぎた少女』でジャッロ映画というジャンルを生み出し、1964年の『モデル連続殺人!』で黒い革手袋にきらめく刃物を持った覆面の殺人者というアイコン、物語性よりもハウダニットや映像美を重視した構成というジャッロ映画のスタイルを確立した。1965年のSFホラー『バンパイアの惑星』はリドリー・スコットの『エイリアン』(1979年)に大きな影響を与えたとされる。1966年のゴシック・ホラー『呪いの館』はマーティン・スコセッシデヴィッド・リンチからバーヴァの最高傑作と評される。フェデリコ・フェリーニがオムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1967年)の第3話「悪魔の首飾り」で鞠を持った少女のイメージを引用している他、Jホラーにも影響を与えた。イタリアの人気漫画『ディアボリック』を原作とした1968年の犯罪アクション映画『黄金の眼』は『ルパン三世』に大きな影響を与えたとされる。1971年の『血みどろの入江』はアングラな地位にあったスラッシャー映画をメジャーな地位に押し上げ、『13日の金曜日』シリーズに大きな影響を与えた。

1973年の『リサと悪魔』はカンヌ映画祭で公開されたものの配給会社が見つからず、結局『エクソシスト』(1973年)の大ヒットを受けて、プロデューサーのアルフレード・レオーネが悪魔憑きシーンを追加撮影して『エクソシスト』に類似した作品に再編集し、1975年に改題して公開された(邦題『新エクソシスト/死肉のダンス』)。『新エクソシスト』では監督名がミッキー・ライオン名義になっている。1977年に遺作となる『ザ・ショック』を監督した。息子のランベルト・バーヴァがノンクレジットの共同監督を務めた。1980年2月公開のダリオ・アルジェント監督の『インフェルノ』では特殊効果を担当した。1980年4月27日、心臓発作のため65歳で急逝した。

バーヴァはイタリアのダリオ・アルジェント、ルチオ・フルチプピ・アヴァティをはじめ、フランシス・フォード・コッポラ、リドリー・スコット、ティム・バートン、マーティン・スコセッシ、デヴィッド・リンチ、クエンティン・タランティーノギレルモ・デル・トロジョン・カーペンタージョー・ダンテショーン・S・カニンガム大林宣彦黒沢清など数多くの映画監督に影響を与えた。

日本でソフト化された作品[編集]

外部リンク[編集]