ルチオ・フルチ

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ルチオ・フルチ(Lucio Fulci、1927年6月17日 - 1996年3月13日)は、イタリアの映画監督、脚本家。

経歴[編集]

ローマ生まれ。医学生、美術評論家を経て、ルキノ・ヴィスコンティ監督の面接を受けてイタリア国立映画実験センターに入学。卒業後は脚本家・助監督として映画界に入り、1959年に『I ladri』で映画監督としてデビューした。職人監督としてコメディ映画や犯罪映画などを監督し、1966年にフランコ・ネロ主演のマカロニ・ウエスタン真昼の用心棒』が国際的にヒットした。1969年に初のジャッロ映画女の秘めごと』を発表した。

1979年に初のホラー映画でカリブ海の島とニューヨークを舞台としたゾンビ映画である『サンゲリア』が国際的にヒットし、以降は多くのスプラッターホラーを手掛けた。ジョージ・A・ロメロの許可を得ずに『ゾンビ』(1978年)の続編として発表したため、ロメロとダリオ・アルジェントから非難されたが、ゾンビブードゥー教の伝承であり、ゾンビ映画はロメロ以前にもあると反論した。続いて日本映画『ベルサイユのばら』(1979年)で主役オスカルを演じたカトリオーナ・マッコールが主演のホラー映画『地獄の門』(1980年)、『ビヨンド』『墓地裏の家』(1981年)を発表した。3作ともアメリカを舞台とし、H・P・ラヴクラフトエドガー・アラン・ポーの作品の影響を受けている。3作合わせて「地獄の門3部作」(Gates of Hell trilogy)と呼ばれ、フルチの最高傑作であるといわれる。日本では『墓地裏の家』の知名度が低く、『サンゲリア』『地獄の門』『ビヨンド』の3作が「ゾンビ3部作」「血みどろ3部作」などと呼ばれる。これ以降全身が腐乱して虫が湧いたゾンビや女性の眼球に木片が突き刺さるシーンといった過激なゴア表現により、ハーシェル・ゴードン・ルイスと並ぶ「ゴッドファーザー・オブ・ゴア」と称された。またシュールなプロットやファビオ・フリッツィが手掛けた音楽など芸術性の高さからアルジェントと並ぶイタリアン・ホラーの巨匠と評価されるようになった。

もともと糖尿病を患っていたが、1984年の『マーダー・ロック』の撮影後に肝硬変も患った。それ以降高額な医療費の支払いとイタリア映画界の衰退に伴う予算制約が重なり、低予算ホラー作品を連発した。1991年の『ヘルクラッシュ!/地獄の霊柩車』が最後の監督作品となった。亡くなる2年前の1994年、対立関係にあったダリオ・アルジェントとホラー映画『肉の蠟人形』(1997年)の製作に協力することを同意した。アルジェントはローマで開催されたファンタ・フェスティバルで車椅子に乗ったフルチを見てショックを受け、フルチを支援することを決めたという。アルジェントがストーリーを考案し、監督・脚本をフルチに依頼したが、フルチの急死により特殊効果担当のセルジオ・スティヴァレッティが監督した。亡くなる2ヶ月前の1996年1月、ニューヨークで開催されたファンゴリア・ホラー・コンベンションに出演し、多くのファンに歓迎された。1996年3月に高浸透圧高血糖症候群のため、ローマの自宅アパートで急死した。68歳だった。就寝前にインシュリン注射を打ち忘れたために亡くなったが、自殺したと考える人もいる。

その他の代表作に史劇『ベアトリーチェ・チェンチ』(1969年、日本未公開・ソフト未発売)、マカロニ・ウエスタン『荒野の処刑』(1975年)、『シルバー・サドル』(1978年)、ジャッロ映画『幻想殺人』(1971年)、『マッキラー』(1972年)、『ザ・サイキック』(1977年)、『ザ・リッパー』(1982年)などがある。

備考[編集]

  • マルクス主義者でカトリック教徒だった。
  • 妻は1969年に癌を苦にしてガス自殺した。

日本でソフト化された作品[編集]

DVD[編集]

Blu-rayのみ(VHSを除く)[編集]

VHS止まり[編集]

関連文献[編集]

  • 伊東美和山崎圭司、中原昌也『ゾンビ論』(洋泉社[映画秘宝コレクション]、2017年)
  • 山崎圭司、佐々木勝己編、『ルチオ・フルチとイタリア血みどろ映画 地獄の門』(秘宝新社[別冊映画秘宝]、2024年)

外部リンク[編集]