パブロ・カザルス
パブロ・カザルス(Pablo Casals, 1876年12月29日 - 1973年10月22日)は、スペイン出身のチェロ奏者、指揮者、作曲家。[1][2]
カタルーニャ地方のアル・バンドレイ[3][4]にて、パウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)として生まれる[5]。1882年からピアノとオルガンの奏者であった父カルラスにピアノの手ほどきを受け、翌年には父と共作の形でキリスト降誕劇《牧師》の音楽を制作。1885年には地元の教会でオルガンを弾くようになったが、道化芝居を鑑賞した際に、役者の弾く弦楽器に興味を持ち、父におもちゃの弦楽器を所望して作ってもらったことで、弦楽器に魅了されるようになった[6]。1888年には地元の教会でピアノ三重奏の演奏会を聴き、後に師となるジュゼップ・ガルシアのチェロ演奏に触れた。同年バルセロナ市立音楽院に入学し、父から4分の3サイズのチェロをプレゼントされた。音楽院ではガルシアにチェロ、ジュゼップ・ロドレダに作曲を学んでいる[7]。1889年からバルセロナのカフェ・トストで演奏のアルバイトを始め、翌年にはアンチャ通りの楽器店「ニュー・フォノ」[8]でヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲集の楽譜を発見し、この曲集の研究に勤しむようになった[9][10]。1891年には、カザルスの演奏を聴いたイサーク・アルベニスからロンドンへの演奏旅行に誘われたが、母に却下されている。この時、アルベニスはロンドンへの演奏旅行をあきらめる代わりにモルフィ伯爵への推薦状を渡している。また、カザルスがカフェ・トストからカタルーニャ広場のラ・パジャレラに移って演奏するようになると、エンリケ・グラナドスと交友するようになった。1893年に音楽院を卒業すると、アルベニスの推薦状を持って母らとマドリードのモルフィ伯爵を訪ね、伯爵の伝手でスペイン国王アルフォンソ12世王妃マリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレーナの御前演奏が実現。この御前演奏により、王妃から月額250ペセタの奨学金を得、ヘスス・デ・モナステリオに室内楽を師事した。1895年にはベルギーに行き、ブリュッセル王立音楽院を受験して合格したが、通学しなかったため、奨学金を打ち切られてしまった。パリ経由で帰国後、1896年には母校の市立音楽院の教授に迎えられ、リセウ大劇場のチェロ奏者も兼務した。その翌年にはマチュー・クリックボームの弦楽四重奏団に参加し、クリックボームとグラナドスとでピアノ三重奏団を結成してスペイン中を演奏して回り、マリア・クリスティーナ王妃から新しいガリアーノ製のチェロを贈られることとなった。1899年にはパリやロンドンに演奏旅行に出かけ、1900年からはパリを本拠に演奏活動を展開。1901年にはアメリカに演奏旅行に出かけたが、タマルパイス山で左手を負傷して演奏活動を一時的に中断した。1903年には南米への演奏旅行に出かけ、その翌年には再びアメリカに行き、セオドア・ルーズベルト大統領からホワイトハウスへの招待を受けた。1905年からはヴァイオリン奏者のジャック・ティボー、ピアノ奏者のアルフレッド・コルトーと三重奏団を結成。同年ロシアを訪問している。1908年にはコンセール・ラムルーに指揮者として登場し、指揮活動も行うようになった[11]。1909年にはフランツ・シャルクの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演する形でウィーンに初登場する。1919年にはバルセロナに戻り、自らの名前を冠したオーケストラを創設。また、コルトーの創設したエコール・ノルマル音楽院にも参加している。1922年にはニューヨークのカーネギー・ホールに指揮者として登場。1933年にはティボーとコルトーとで結成していた三重奏団を解散。また、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会への出演を打診されるも、これを断っている。1936年に始まったスペイン内戦を受けて、食料、衣類や薬の資金調達のためにヨーロッパと南アメリカで慈善コンサートのツアーを敢行。また、この年から1939年までにJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲の全曲録音を段階的に行った。1938年にリセウ大劇場でスペインでの最後のコンサートを行う。1939年に亡命し、ロンドンでスペイン難民のための慈善コンサートを指揮。パリのモーリス・アイゼンベルクの家に立ち寄った後、プラドに住み、詩人のジョアン・アラベドラと共にスペイン難民救済キャンペーンに奔走した。1945年からロンドンで演奏活動を再開したが、スペインのフランコ政権に対して何も行動を起こさないイギリスに失望し、イギリスでの演奏活動を行わないこととした。オックスフォード大学やケンブリッジ大学からの名誉博士号授与の話も断っている。1946年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与される。しかし、民主主義国家によるスペインのフランコ政権の黙認に抗議する形で公の場での演奏活動を停止し、プラドでチェロのレッスンと作曲に専念することとなった。1950年にはアレクサンダー・シュナイダーの説得に応じて、プラド音楽祭の音楽監督を務める。1957年に母の故郷であるプエルトリコに移住し、この地でも音楽祭を開催するようになった。1960年にはルドルフ・ゼルキンに招待されてマールボロ音楽祭に参加。またアカプルコのサンディエゴ要塞で自作のオラトリオ《まぐさ桶》を初演。1961年には弟子の平井丈一朗の凱旋帰国に帯同する形で初来日を果たした。1963年にはアメリカのジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領から自由勲章、1971年にはフランス政府から国家功労大十字勲章をそれぞれ贈られた。また1971年の国連デーである10月24日に国際連合本部で演奏し、国連事務総長のウ・タントから国際平和賞を授与された。
1973年には6月から7月にかけてニューヨークで開かれたカザルス音楽祭に出席し、8月のイスラエル音楽祭でも演奏を披露したが、9月30日にプエルトリコで心臓発作で倒れ、入院先のサンファンの病院で亡くなった。
注釈[編集]
- ↑ “Pau Casals”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。
- ↑ テンプレート:Discogs artist
- ↑ “アル・バンドレイ(パウ・カザルスの街)” (2009年10月24日). 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。
- ↑ “【2020年最新】アル・ベンドレイ ~偉大なるチエリスト、パウ・カザルスの足跡を訪ねて~”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。
- ↑ “BEETHOVEN: Symphonies Nos. 1 and 4 / BRAHMS: Variations on a Theme by Haydn (Casals) (1927, 1929)” (2007年). 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。
- ↑ “La Carabasseta”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。
- ↑ “CASALS P”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。
- ↑ 桑原, 聡 (2021年1月23日). “【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】安野光雅さんへの詫び状”. 産経新聞. オリジナルの2021年3月5日時点によるアーカイブ。 2021年3月5日閲覧。
- ↑ モントリオール・ガゼット紙の音楽評論家であったエリック・シブリンによれば、1901年10月17日付のDiario de Barcelona紙にカザルスがJ.S.バッハの無伴奏組曲(全曲かどうかは明言されていない)を演奏して称賛された旨の記述があるという。(Siblin, Eric (2010年1月15日). “How Bach's Cello Suites changed Eric Siblin's life”. The Guardian. オリジナルの2021年3月5日時点によるアーカイブ。 2021年3月5日閲覧。)
- ↑ カザルスによるJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲の初演奏について1904年に行われたとする記述もある。(池上, 輝彦; 槍田, 真希子 (2018年10月27日). “ヨーヨー・マ 新盤バッハ「無伴奏チェロ組曲」を語る”. エンタメ!ビジュアル音楽堂. オリジナルの2021年3月5日時点によるアーカイブ。 2021年3月5日閲覧。)
- ↑ “指揮者カザルス/プラド・ライヴ1953” (2004年11月25日). 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日確認。