ドミンゴ・グスマン
基本情報 | |
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国籍 | ドミニカ共和国 |
出身地 | サン・クリストバル |
生年月日 | 1975年4月5日(49歳) |
身長 体重 | 188 cm 102 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 アマチュアFA |
初出場 | MLB / 1999年9月9日 CPBL / 2001年5月27日 NPB / 2002年3月31日 |
最終出場 | MLB / 2000年6月7日 CPBL / 2001年10月1日 NPB / 2008年8月5日 |
ドミンゴ・グスマン | |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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ドミンゴ・グスマン・セラーノ(Domingo Guzmán Serrano, 1975年4月5日 - )は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
選手としていちばん活躍したのは中日ドラゴンズ期であったが、その時代を知らない者にとっては「ドミンゴwwwwwwwww」のイメージしか残っていないであろう存在。いや、ピッチャーなのにヘッドスライディングで盗塁するヘンな奴のイメージもあるか(下記)。
選手としての特徴・人物[編集]
抜群の身体能力で、MAX155km/hのストレートと140km/hの優れた高速チェンジアップ・スライダーを持つ。異常な強肩を活かした変則フォーム(上半身だけで投げる、いわゆる手投げ)が特徴だが、負担が大きかったのか、中日時代に右肩と右肘を痛めている。
高い潜在能力を持ちながら2003年シーズン終了後に負け越したこと、防御率が4点台後半だったことなどを理由に横浜を解雇されたが、最下位を独走するチームで8勝(12敗)はチームトップだった。ドミンゴとの契約に際し、その年就任した中日落合博満監督は「何で横浜が彼を出したのか理解できない[1]」とコメント。投手王国だった中日では防御率も1点ほど底上げされ、10勝(5敗)を挙げ優勝に貢献。中日での活躍は実質この1年のみだったが、川上憲伸、山本昌に次ぐ3番手投手として2004年の優勝に貢献した1人となった。
なお、横浜時代に挙げた通算13勝は、前身の大洋時代も含めチームの歴代外国人投手では当時最多(2005年にセドリック・バワーズが更新)。また、2002年にマークしたシーズン8勝も、チームの歴代外国人投手としては当時最多であった(こちらは2014年にギジェルモ・モスコーソが更新)。
横浜在籍時は打撃が非常に苦手だったことで知られ、18打席連続三振(世界記録)の珍記録を持つが、本人曰く「振っても振ってもバットに当たらないんだからしょうがない」。 その後は野球を始める以前にしていたバスケットボールで鍛えた俊足を生かして、たびたび積極的な走塁やセーフティーバントを見せた。中日時代のチームメイトの荒木雅博から「間違いなく自分より足が速い」と評価されていたほどである。
バントは構えてからすると必ず空振りしていたが、普通のバッティングフォームから投球後ボールにバットを当てに行くようにすることは出来た。そのため、全てのバントが相手から見ると上記の俊足と相まって意表をついたセーフティーバントになった。2004年に記録した8安打のうち7本がバントヒットである。
中日時代には同じく俊足を活かしてサイン無しで盗塁を決行し、何度か成功させた。ヘッドスライディング(投手が手から滑り込むことは怪我をする危険性が高くタブー)しかできず、森繁和コーチが足からのスライディングを教えようとしたが拒否したため、結局盗塁を禁止された。
風貌が元読売ジャイアンツのバルビーノ・ガルベスに似ていることから、最初に来日した時に「兄弟?」と周りを驚かせた。同じドミニカ出身であり、台湾からのテスト入団という経緯でも共通しているが、本人はガルベスとの関係を否定している。
中日退団後は右肩、右肘のリハビリ以外にはほとんど趣味の釣りをして過ごしており、実戦は友人らに誘われて草野球に1試合登板したのみだったという。
楽天入団後は、15万円のピアスを付けるようになった。
日本食は大好きで、特に刺身や寿司は昔からの好物である[2]。
脚注[編集]
- ↑ だが、横浜・中日の両球団で師事し中南米系外国人選手の指導や信頼構築において評価の高い森繁和が2003年限りで横浜を退団して中日に移籍しており、森の不在が影響した可能性も考えられている。
- ↑ 河北新報「週刊イーグルス」8月16日掲載
- ↑ 中日スポーツ2008年7月5日掲載