トゥラーン

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トゥラーン(マジャール語:Turán)は、第二次世界大戦中にハンガリーが生産・保有していた中戦車の形式。トゥラーンはペルシア語で中央を意味する言葉で、イラン神話においてはすべてのアジア系民族の祖とされる存在である。

設計は、チェコスロバキアが試作した中戦車シュコダT-21を参考に行われた。40㎜砲を装備した初期型のTurán Ⅰ(40M Turán)、75㎜砲を装備した後期型のTurán Ⅱ(41M Turán)の2種類に大別される。Turán Ⅱの武装と装甲を強化したTurán Ⅲ(43M Turán)も少数が試作されたが、量産には移されなかった。

ハンガリー軍によって主に東部戦線で用いられ、ソビエト連邦への攻勢や、ハンガリーの防衛に貢献した。一部はソ連軍に与したルーマニア軍に鹵獲され、同国の手に渡った。

Turán Ⅰ誕生まで[編集]

1937年12月チェコスロバキアシュコダ社の工場は、以前のLT vz. 35の成功を受けて、新たな中戦車のプロトタイプを準備していた。やがて2つの計画案にまで絞り込まれ、S-IIcと命名されたものの、組み立てが完了することはついになかった。

S-IIcの重量は16.2tで、武装として47㎜砲と2門の7.92mm機関銃を装備し、最大装甲厚は30㎜であった。その派生型、S-II-cは250馬力の13リッターエンジンを備え、最高時速50kmの快速を誇った。ズデーテン割譲後、2つの計画案はまとめられてT-21戦車となった。

1941年、ハンガリーに2両の試作T-21がもたらされた。ハンガリーの技術者らは、これを改造した上で同国軍に導入することを決定した。その際、経済的・軍事的な面からチェコ製の47㎜砲をハンガリー国産の40㎜砲に置き換えることとした。軍事専門家によれば、実際にハンガリーの40㎜砲は装甲貫通力においてチェコの砲に勝っていたという。

戦車の改造は、チェコのシュコダの工場で行われた。車体と砲塔はそのままに、砲のみをハンガリーのものに入れ替えた。正面装甲・砲塔装甲も強化され、それぞれ合計50㎜となった。その他、機関銃はハンガリー製の8㎜機関銃に換装された。

各種改造の後、戦車の重量は19.2tにまで増加した。

生産[編集]

Turán Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの3種類が製造された。Turán Ⅰは、ハンガリーの対戦車用40㎜砲を装備した初期型で、ボフォース 60口径40mm機関砲と同じ砲弾を使用した。砲塔はリベット留めされていた。1941年から1943年までの間に、285両が生産された。

1941年の実戦経験から、ハンガリーの軍部はTurán Ⅰが現代的な中戦車に性能で劣っていることを認識した。そのため、陸軍参謀本部は発注していた309両のTurán Ⅰのうち、254両をより重装甲のタシュ重戦車に振り替えた。また、すでに製造されたTurán Ⅰを改造し、重戦車並みの装甲と武装をもつ戦車とすることを計画した。そうして誕生した新型戦車が、Turán Ⅱであった。

1941年、ハンガリー陸軍軍事技術研究所(HTI)は、Turán Ⅱとそれに搭載する新しい75mm砲の開発を命じられた。当時HTIには火砲の設計者も生産部門もなかったため、既存の火砲から選択して改造する必要があった。同研究所の技術者らは、第一次世界大戦以来使用されていたBöhler社製の短砲身80mm榴弾砲を搭載することを決定した。火砲の改造は、スウェーデンボフォース社に依頼されたその他、シャーシの設計が変更され、車体下部の装甲は強化された。また、運転席のハッチのドアが折りたたみ式となった。新たな車体と主砲は1942年1月に、砲塔は同年2月にプロトタイプが完成した。新たな短砲身75㎜砲は、ハンガリー戦車の主砲としては初めて水平式の砲閉鎖機を搭載していた。

その後、Turán Ⅱの試作車の試験中に砲架が破損する事故が起きて作業が遅延したが、1942年5月6日、すべての試験が終了した。そして、光学機器の生産と弾薬の確保にめどがついた1943年9月頃、部隊への配備が開始された。以前のハンガリー戦車よりも強力だったため、Turán Ⅱは大量生産された。1944年中だけでも、軍の記録で129両、工場側の記録では182~185両が製造された。

Turán Ⅱの車体は、ハンガリーの他の軍用車両にも応用された。中でも、固定式の砲塔と105㎜砲を装備したズリーニィⅡ自走砲はまとまった数生産された。その他、対戦車戦闘に適した長砲身75㎜砲を装備したズリーニィⅠ駆逐戦車、装甲と武装をTurán Ⅱよりも強化したTurán Ⅲなどが計画されたが、量産に移されることはなかった。量産が始まる前にドイツ軍がハンガリーに進駐し、武器の新規開発・製造が禁止されてしまったためである。

ズリーニィⅠ駆逐戦車、Turán Ⅲ中戦車の試作車は現存しないが、戦闘に参加したかどうかは不明である。

実戦[編集]

主に第二次世界大戦東部戦線において、ソ連軍と戦った。

トゥラーン中戦車は、1943年頃にようやく数がそろい始め、ハンガリーの第1機甲師団および第2機甲師団に配備された。一部は同国の第1騎兵師団や、突撃砲大隊でも運用された。初の実戦参加は1944年に入ってからだったが、基本設計が1937年の戦車がT-34やIS-2に通用するはずもなく、華々しい戦果はない。

Turán Ⅰの性能や戦績ははっきりしないが、500m先で50㎜程度の貫通力があったとする説がある。また、Turán Ⅱは500mの距離からT-34戦車を撃破することができたとされる。

隣国ルーマニアが1944年にクーデターを起こして以降は、ルーマニアとの戦闘にも参加した。その際、ルーマニア軍によって多数のトゥラーンが鹵獲された。

現存車両[編集]

2014年現在、現存するトゥラーンは1両のみである。後期型のTurán Ⅱ(41M Turán)で、ロシアモスクワにあるクビンカ戦車博物館にて保存・展示されている。