スティーヴン・ラトーレ

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スティーヴン・ジョゼフ・ラ・トーレ英語:Steven Joseph La Torre[1]、出生名:ステファノ・ラ・トーレ(Stefano La Torre)[2]1886年3月11日[1] / 3月12日[2] - 1984年7月5日[3])は、ペンシルベニア州マフィア。「モンテドーロの男」(後のブファリーノ・ファミリー)のボス。

経歴[編集]

シチリア島モンテドーロでジュゼッペとマリア・マランカの間に生まれた[2]。1903年5月にペンシルベニア州ピッツトンの炭鉱地域に移住し[4]、炭鉱労働者になった[5]。父ジュゼッペは1902年4月にピッツトンに移住し、先に移住していた従兄弟のサルヴァトーレ・ブファリーノの家に滞在していた。母マリア・マランカと4人の子供たちはラトーレの6ヶ月後にピッツトンに移住した[4]

アメリカに来る前からモンテドーロ・マフィアの一員だったと考えられており[4]、アメリカで地元のマフィアのボスになったとされる[5]。1906年に義理の兄弟でモンテドーロ・マフィアのリーダー、サント・ヴォルペの渡航費用を支払った[4]。ヴォルペ、サルヴァトーレ・ブファリーノの従兄弟のチャールズ・ブファリーノ(ラッセル・ブファリーノの叔父)とともに「モンテドーロの男」(the men from Montedoro)を結成し、後にブファリーノ・ファミリーとして知られるようになった[5][6]。1907年2月にヴォルペ、ブファリーノ、その他19人の男たちとともに共謀、殺人未遂、ダイナマイト、脅迫、家屋への発砲などの容疑で逮捕された。1907年5月にヴォルペと他1人の男以外の被告は有罪判決を受け、1年の禁固刑と25ドルの罰金を言い渡された[4]。1908年にボスを辞め、ヴォルペが新しいボスになった[7]。「モンテドーロの男」はアメリカ鉱山合同組合(UMWA)や炭鉱のオーナーに対して大きな影響力を持った[6]

ラトーレとヴォルペは1918年頃まで炭鉱で採掘の仕事をしていたが、1920年に鉱業請負業者となった[4]。しかし、1929年の世界恐慌で被った損失を埋めるために借りた借金の返済を拒否したり[5]、組合指導者の暗殺のために雇った殺し屋に払う費用の負担を拒否したりしたため、ヴォルペおよびブファリーノとの間に軋轢が生まれた[4]。1929年に3人は提携を解消し、共同で経営していた鉱業会社を解散した。1930年代後半からモンテドーロ・マフィアと距離を取り、鉱業請負会社の経営に参加したり、ビリヤード場とたばこ屋を開店したりした。1941年に酒税法違反で逮捕・起訴され、連邦税の未納で有罪判決を受け、執行猶予付きの3ヶ月の禁固刑と100ドルの罰金を言い渡された[4]

ヴォルペからボスの座を引き継いだジョヴァンニ・シャンドラはヴォルペとブファリーノが貸した金を回収するため、1943年にラトーレを鉱業請負会社から追放した。シャンドラはラトーレのビリヤード場とたばこ屋にも目を付けた[4]。ラトーレの娘メアリーの夫[5]ルチアーノ・ファミリーの一員のアンジェロ・パリーノが、ラトーレの裏社会の保護者のような存在になっていた[4]。1944年にシャンドラはラトーレを裏社会の裁判に呼び出し、パリーノの許可を得たビジネスならば、パリーノは利益を分配すべきだと主張した。ラトーレは「地獄に落ちろ」と捨て台詞を吐き、以降はピッツトンの裏社会との関係を絶ったとされる。ただしパリーノとの関係は維持した[4]。またペンシルベニア犯罪委員会の1990年度の報告書は、1984年に死去したラトーレを「ブファリーノ・ファミリーの最年長メンバー」だとしている[3]

1984年7月5日にペンシルバニア州キングストンのネスビット記念病院で死去した。98歳だった[4]。ペンシルベニア州カーヴァートンのメモリアル・シュライン墓地に埋葬された[8]

家族[編集]

ラトーレはローズ・ルッキーノと結婚し、2人の息子ジョゼフ(1913~2001)とサミュエル(1918~1989)、2人の娘メアリーとレナをもうけた[8]。息子はいずれもFBIの情報提供者となった[1][5]

出典[編集]

  1. a b c Federal Bureau of Investigation (1967年5月12日). “No Title”. Mary Ferrell Foundation. 2020年7月1日確認。 “STEVEN JOSEPH LA TORRE was born on 3/11/86 in Montedoro, Sicily, immigrated to the United States in 1903 and had always resided in Pittsaton, Pa., area. [...] It is to be noted the CHARLES C. BUFALINO, is the uncle of RUSSELL A. BUFALINO [...] Since 4/20/67, SA WAYNE D. SMITH of the Wilkes-Bare RA has been contacting SAMUEL STEVEN LA TORRE (PH 872-PC), subject of Philadelphia File 137-4887.”
  2. a b c Immagine 22” (Italian). Antenati. 2020年7月1日確認。 “L'anno milleottocentottantasei, addì quattordici di Marzo [...] è comparso La Torre Giuseppe di Stefano, [...] il quale mi ha dichiarato che alle ore [...] del dì dodici del corrente mese [...] da Marranca Maria, sua moglie, [...] è nato un bambino di sesso maschile che egli mi presenta, e a cui dà il nome di Stefano.”
  3. a b Organized Crime in Pennsylvania: A Decade of Change, 1990 ReportPDF”. Pennsylvania Crime Commission (1991年4月). 2022年8月24日確認。
  4. a b c d e f g h i j k l Men of MontedoroPDF”. WWW.M E S S A N A.ORG (2011年1月). 2022年8月24日確認。
  5. a b c d e f Valin, Edmond. “In Pittston, Informants run in the family”. The American Mafia. http://mafiahistory.us/rattrap/inflatorre.html 2020年7月1日閲覧。 
  6. a b Fox, Stephen R. 『Blood and Power: Organized Crime in Twentieth-Century America』 Morrow、1989年。ISBN 978-0-688-04350-6
  7. Newton, Michael 『The Mafia at Apalachin, 1957』 McFarland、April 6, 2012 2012、22頁。ISBN 978-0-7864-8986-2
  8. a b “Stephen LaTorre”. Times Leader: p. 15. (1984年7月6日. https://www.newspapers.com/clip/39955452/the-times-leader/ 2020年7月1日閲覧. "His wife, Rose, died in 1973. Suriviving are his sons, Joseph, Jenkins Township; Samuel, Exeter; daughters, Mrs. Mary Parrino, Pittston; Mrs. Lena Lipparini, Jenkins Township; [...] Interment will be in a family plot in Memorial Shrine Cemetery, Carverton." 

外部リンク[編集]