ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

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ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770年12月16日 - 1827年3月26日)は、ドイツ(生誕時は神聖ローマ帝国)の作曲家である。

西洋音楽史上最も重要な作曲家の一人とされ、古典派音楽を集大成し、浪漫派音楽への道を切り拓いた。古典派と浪漫派の中間に属しているとも言われる。(「ソナタ形式#解説」も参照)。日本では「ベートーベン」とカナ表記されることもある。ドイツ語の発音では[ˈluːt.vɪç fan ˈbeːt.hoːfən]であり、これをカナ表記するとルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンが近い。

Beethovenの語源は、フラマン語オランダ語のうち、現在のオランダではなくベルギーの北部フランドルで話されるのも)の「Beet=ビート」と「Hoven=農園」を組み合わせた合成語で、「ビート農園」の意味に由来する。これは、同じく音楽家であった彼の祖父がオランダ語圏であるフランドルの出身で、後に神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンへ移住し活動したためである。なお、フラマン語(オランダ語)では「ベートーヴェン」[ˈbeːtɦoːvən]と発音され、こちらも「ベートーヴェン」ではない。

ベートーヴェンの生涯は、「学習期=1770~1792年」、「初期=1793~1802年」、「中期=1803~1812年」、「後期=1813~1827年」と大きく4つに分けられている。初期までは、ハイドンやモーツァルトの影響も強い。後期からは作風がロマン派に変わっていく、とする見解もある。

モーツァルトより14年半遅く生まれた作曲家である。

作曲家として大活躍していた40歳の頃に聴覚障害によって耳が聴こえなくなった、とされるが、これについては全聾説から中度難聴説まで諸説ある。また、ベートーヴェンが偉大なのは西洋音楽史上極めて偉大な芸術性を持った音楽作品を作曲した為であり、「耳が聞こえないのに作曲を続けた」ことは彼の芸術家としての偉大さとは殆ど関係はない。

ベートーヴェンに関する子供向けの読み物が日本でも沢山出版されており、また「楽聖」という通り名も良く使われる。学校の音楽室ではしばしば、あの怖い顔で虚空を睨んでいる肖像画が飾られ、「夜中に目が動く」などと噂され子供達からは恐れられている。

9曲の交響曲、16曲の弦楽四重奏曲、32曲のピアノ・ソナタなどで知られる。彼の作品を上手に演奏できるか否かはクラシック音楽業界でプラス査定されるときの大きな判断材料となる。

生涯[編集]

1770年にボンに生まれる。音楽家として凡人、しかもアルコール依存症で稼ぎの少ない暴力的な父親から一家の稼ぎ頭になることを望まれてアル中ダメ父親の監督下で音楽を学んだ。4歳ごろから、父親から厳しくチェンバロの稽古をさせられた。12歳の頃の1782年には最初のピアノソナタを作曲(選帝侯ソナタ WoO 47)。1787年、初めてウィーンへ行き、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトフランツ・ヨーゼフ・ハイドンにも弟子入りを志願したことがある。ハイドンには弟子入りを認められ、1792年にウィーンに移住。当時ウィーンは「音楽の都」と呼ばれ、音楽が盛んな街であった。しかし忙しかったハイドンはほとんどレッスンをすることができず、ベートーヴェンは密かにヨハン・バプティスト・シェンクという、現在では無名だが当時は高名であった作曲家に師事した。すると数年で作曲家として頭角を表し、ウィーンでも名の知れらた音楽家となった。

1804年の交響曲第三番『英雄』からの10年間ほどはロマン・ロランが「傑作の森」と呼ぶ時期に入り、交響曲第五番(通称「運命」)、交響曲第六番『田園』、ピアノ協奏曲第五番『皇帝』といった傑作を次々に生み出す。しかし聴力の低下により、ピアニストとしての演奏は1808年のコンサートにおけるピアノ協奏曲第四番が最後となり、その後は必然的に作曲に専念するようになった。しかし自作の管弦楽曲に関しては、必要に応じて指揮者として演奏に関わった。

その後スランプの時期があったが、晩年はより深い境地に達し、「ミサ・ソレムニス」や交響曲第九番、十二番から十六番までの五曲の弦楽四重奏曲が書かれ、これらはベートーヴェンの最高傑作とされている。

1827年、憎きダメ親父と同様の酒好きが祟ってか、肝硬変で死去。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]