五・一五事件

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五・一五事件(ごいちごじけん)とは、1932年5月15日大日本帝国で発生した当時の内閣総理大臣犬養毅大日本帝国海軍の青年将校らに暗殺された事件。

事件の起きた背景[編集]

アメリカ合衆国に始まった世界恐慌は大日本帝国の経済にも大きな影響を与えた。農産物の価格が下落し、農民は農作物を作れば作るほど赤字になった。また銀行の倒産によって預けていた預金を失った農民の中には精神の異常をきたした者もいた。農村の疲弊は軍隊にも及び、僅かな手当てを故郷に送金する農村出身の兵士も大勢いた。それを重く見た関東軍が政府の命令を得ないまま満州地域に進出。これは私戦を禁じる明らかな満州地域に日本の傀儡である満州国を建国した。

詳細は「満州事変」を参照

犬養毅の政界引退と復帰[編集]

犬養毅は1925年に政界を引退し、隠居生活を送っていたが、周りから担がれる形で政界に復帰した。そして中華民国との信頼関係が厚いという理由で内閣総理大臣に就任してしまった。これに対し、長年の同志であった頭山満は職を辞した方が良いのではないかと進言したが、聞き入れなかった。もっとも犬養毅は既に死を覚悟していたようである。

事件発生[編集]

関東軍の独断によって建国された満州国を犬養毅内閣は承認しなかった。しかし関東軍は満州へ影響力を拡大することで不景気を解消できると考えたため満州国を承認しない犬養毅内閣が邪魔になっていた。そこで1932年5月15日に海軍将校によって官邸・日本銀行が襲撃され、犬養毅は殺害される。これにより犬養毅内閣は内閣総辞職を行い、蔵相が臨時の総理大臣となった。

その後[編集]

11月5日には全員が検挙された。しかし、国民は自分たちの代わりに事件を起こした海軍将校に同情する者が多く、減刑嘆願書や差し入れが多く届いた。軍法会議の判決は意外に軽く、恩赦された者も多かった。国民にも軍の支持者が増加したことでもともと金権政治や財閥と結びついた政治などで国民からの支持が少ない政党は国政から追い出された。政党内閣の時代が終了したことで軍人が首相などにつくことが多くなり国が軍の軍需需要を満たすような帝国主義的な行動が行われるようになった。

決起文[編集]

関連項目[編集]