高野義光
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高野 義光(たかの よしみつ、? - 寛永13年(1636年))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏、次いで山内氏の家臣[1]。
略歴[編集]
父は和田義清。鎌倉幕府の御家人・和田義盛の子孫といわれ、土佐国土佐郡森郷和田を領して長宗我部家に仕えた。通称は庄右衛門、庄助、勝介、勝右衛門、彦之丞という[1]。
義光は当初は和田姓であったが、土佐郡本川郷高野に所領を移された際、その地名から高野と改姓し、名も義光、あるいは義充とした[1]。
豊臣秀吉の四国征伐の際、毛利輝元の軍勢が伊予国東部の金子元宅の金子城や高尾城を包囲した際、元親の命令で高尾城の救援に向かった。激戦の末に高尾城は落城し、義光は苦難の末に土佐に逃れて、元親から籠城の労苦を労われた[1]。
関ヶ原の戦い後、長宗我部家が改易されると義光の所領も多くを没収されたが、山内氏に仕えて名本となり、土佐郡高野村の道番を務めた。寛永13年(1636年)に病死[1]。