阿部翰靖

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阿部 翰靖(あべ みきやす、1936年[1] - )は、民社党本部書記局員。

中国青島市生まれ[1]福島県相馬郡新地町出身。福島県立相馬高等学校卒業[2]。1960年民社党本部に入り、教宣部長、組織部長、中央党学校事務局長、総務局次長、機関紙局次長、参院事務長、組織局次長、地方議会対策委員会事務局長などを歴任[1]。1963年民主社会主義青年連合(民社青連)常任幹事[3]。1963年西ベルリンで開かれた国際社会主義青年同盟(IUSY)の幹事会に日本代表として出席[4]。1974年時点で財団法人富士社会教育センター評議員、富士政治大学校講師[4]、民社党教宣第二部長[5]。1976年時点で民社党組織部長[6]。1989年時点で週刊民社編集長[7]。1989年7月の第15回参議院議員通常選挙に比例代表区から立候補したが落選。1994年の民社党解党時は選挙対策委員会事務局長[1]

著書[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 伊藤郁男、黒沢博道編『民社党の光と影――元党本部書記局員による民社党研究論集』富士社会教育センター、2008年、236頁
  2. 今野鉄男「地味だが確実な歩みをPDF」馬城かわら版 2022 第148号
  3. 労働省編『資料労働運動史 : 資料 昭和38年』労務行政研究所、1965年、1121頁
  4. a b 阿部翰靖『行動学習――アクションによる新しい研修会の進め方』富士選書、1974年
  5. 阿部翰靖「削られた週刊誌意見広告」『革新』第50号、1974年9月
  6. 『革新』第67号、1976年2月
  7. 『Kakushin』第228号、1989年8月