足利夫人 (織田信長の娘)
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足利夫人(あしかがふじん)は、安土桃山時代の女性。室町幕府の最後の将軍であった足利義昭の妾になった女性である。
生涯[編集]
織田信長の娘か側室だったと見られる女性とされる。名は不詳だが、『多聞院日記』から「虎福」とあるので、これが名前なのかと見られる。
『多聞院日記』天正19年(1591年)5月11日条には以下のようにある。
「大門一昨日ヨリ小(大)坂ヘ御越、去月廿六日商(昌)山様ヘ関白ヨリ祝言在之、信長ノヒサウノ虎福女也ト、依之為御礼御越輿」とある。現代語訳すると「大門(大乗院門跡)の義尋が一昨日より大坂へ出向いた。去る4月26日に父親の昌山(足利義昭)の下へ関白・豊臣秀吉から輿入れが行なわれた。信長秘蔵の虎福女であるという。義尋はそのお祝いのために大坂へ出向いた」
信長の遺族や側室などは、信長の死後は後継者の天下人となった豊臣秀吉に庇護されており、義昭は秀吉の許しを得て天正15年(1587年)に上洛し、剃髪して昌山と号して1万石を与えられていた。恐らく、秀吉の政治的な思惑から嫁いだものと見られる。この時、義昭は55歳であり[1]、彼女とは恐らく親子ほどの年齢差があったのではないかと推定される。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。
- 『多聞院日記』