趙嬛嬛
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趙嬛嬛(ちょうかんかん、1111年 - 1141年?)は、北宋の皇帝・徽宗の第20皇女。諱は多富。「柔福帝姫」の美称でも知られる。
未婚の皇女の身でありながら、16歳のときに異民族に輪姦され、妊娠した。また、その生死をめぐって南宋で陰謀が起きた。
経歴[編集]
徽宗と懿粛貴妃王氏とのあいだの三女。夭折者を除けば、皇女・趙金児の同母姉である。
柔福公主、のち柔福帝姫の位を与えられた。
靖康の変後、国が滅び首都の開封が占領されると、嬛嬛も捕虜となる。征服者の蛮族の金に拉致される途中、凌辱を受けた。このとき、満年齢16歳であり、未婚の処女であった。同母妹の趙金児は拉致監禁されて凌辱を受けた直後に死去している。
そして彼女は、北方への連行中に、妊娠が発覚し、流産した[1]。金に連行されると、皇帝の太宗に一晩限りの寵愛を受け犯された。その後、天会5年(1127年)6月に、他の皇族女性と一緒に娼館の洗衣院に下された。
洗衣院では多くの男の相手をしたが、嬛嬛は金の王族・盖天大王完顔宗賢に認められ、その妾として弄ばれた。その日々も長くは続かず、徐還という漢民族の男と結婚させられた。そして、1141年、29歳の若さで病死したという。
異説[編集]
1130年、南宋に嬛嬛を称する女が洗衣院から逃亡したと告げ、現れた。最初は皇族・福国長公主として扱われたが、1142年に偽物であることが露見し、拷問のすえ尼僧だと自白して処刑されたという。
だが、偽物だと証言した韋氏は、嬛嬛と共に洗衣院に入り娼婦となった後、完顔宗賢の妾として奉仕するなかで嬛嬛に恨みを抱き陥れたともいう。
いずれにせよ、この「嬛嬛」は自らが受けた凌辱を晴らすかのように、多くの奴隷を殺害していたという。