泉鏡花

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

泉鏡花(いずみ きょうか、1873年11月4日-1939年9月7日)は、日本の文豪。

人物[編集]

石川県金沢市生まれ。本名・鏡太郎。幼くして母すずを亡くし、のちに芸者で本名すずと結婚する。上京して尾崎紅葉の門下に連なる。明治25年「冠弥左衛門」でデビュー、以後独自の華麗な文章で活躍するが、芸者との結婚は師の紅葉に反対され、ひそかに妻としていた。この経験をもとに書かれたのが『婦系図』である。弟も作家となり、泉鏡花の舎弟だというので「泉斜汀」と名のった。西洋文学も学び、ハウプトマンの「沈鐘」をドイツ文学者と共訳し、ギリシア小説『黄金のロバ』を元ネタに「高野聖」を書いたりした。能楽をめぐる巧みな「歌行灯」や、戯曲「夜叉ヶ池」や「天守物語」を書いたが、これら幻想的戯曲は、むしろ戦後になって高く評価された。明治・大正期には「婦系図」や「日本橋」など、芸者が活躍する作品が、新派や歌舞伎で上演されることが多く、湯島の境内の場面は鏡花が自ら書き、「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉よ」といった名セリフが人口に膾炙した。

生前からお化け話が好きということで柳田国男から愛好され、里見弴水上滝太郎らは「九九九会」という鏡花を囲む会を毎月開催した。水上滝太郎はその筆名を鏡花の作品からとっている。谷崎潤一郎も鏡花ファンだった。そのため、谷崎の実の娘鮎子の結婚に際して媒酌を務めたが、そのあと体調を崩して没した。姪の泉名月は創作の勉強のため谷崎に預けられたが、実際は中勘助が面倒を見ていた。

紅葉の没後、自然主義全盛の時代に食うに困ったと述懐しているが、これはやや被害妄想で、実際には仕事はさして減っていない。また自然主義に転じた徳田秋聲を憎んでいたと言われ、和解のはずの会合で秋聲を殴ったとか、秋聲が経営するアパートで弟の斜汀が死んで和解したとか、様々な逸話がある。

金沢市では五木寛之らによって泉鏡花文学賞が設定され、今も続いている。