永井荷風

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永井荷風(ながい かふう、1879年12月3日-1959年4月30日)は、日本の文豪。

人物[編集]

漢詩人・永井禾原の子として東京に生まれる。父は文部省官吏だった。

足跡[編集]

20歳の時落語家を志し、ついで歌舞伎座の作者部屋に入る。明治35年『地獄の花』などを刊行。翌年父の勧めで渡米し、ミシガン大学に学ぶ。ニューヨークでイデスという恋人を得る。その後フランスに正金銀行勤務のため渡る。明治41年、29歳で帰国し、『ふらんす物語』『あめりか物語』を刊行して新時代の文学者として迎えられる。明治43年には森鴎外らの推薦で慶應義塾にできた文学部の教授となり、『三田文学』を主宰する。この間、斎藤ヨネと結婚、芸妓の巴家八重次を外妾とするなど、女関係は多く、遊里や花街での遊びを好んだ。

大正5年、慶應の仕事を辞したが、父から莫大な財産を譲られたため生活には困らず、好き勝手に『腕くらべ』『おかめ笹』などの小説を書いたが、多くは狭斜の巷に取材したものだった。大正9年には麻布に偏奇館という独特の家を建てて住んだ。昭和6年(1931)に久しぶりの小説『つゆのあとさき』を刊行し、後輩の谷崎潤一郎に激賞されたが、谷崎はかつて誉めてくれた荷風への恩返しで誉めたので、ほかにはあまり褒める者はなかった。

巴家八重次はのち荷風と別れてから若い文学者・勝本清一郎の愛人をへて舞踊家・藤蔭静枝として独立する。荷風は最終的に妻も子もなく、その境涯を「雨瀟瀟」という短編に書いている。従弟の杵家五叟の次男・永光を養子とした。

遊蕩の変人作家とみられていた荷風が、昭和12年に、玉ノ井の私娼との交情を描いた「濹東綺譚」を「朝日新聞」に連載し、岩波書店から刊行したことは驚きをもって迎えられた。戦争で偏奇館は炎上し、1945年8月に、岡山県へ疎開中の谷崎潤一郎を訪ねて、帰京の途次、敗戦を知った。

戦後も独身生活を続け、ストリップ劇場である浅草フランス座は名づけ親で、フランス座や浅草ロック座へよく通い、楽屋で踊り子と一緒に撮った写真が多い。また銀座タイガへ夕飯を取りに行く生活が続いたが、79歳で孤独死した。大正期から日記をつけており、『断腸亭日乗』として刊行されており、生活記録としても評価が高い。荷風の、金のある独身生活は「ランティエ」の生活として80年代以後中年男性の憧れをかきたてる対象となっている。

親族[編集]

伝記[編集]