芳賀保治

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芳賀 保治(はが やすじ、1857年 - 1934年)は、三河国渥美郡牟呂村(現在の愛知県豊橋市)出身の海苔養殖農家・政治家。三河地方における乾海苔製造の先駆者である。

経歴[編集]

安政4年(1857年)、三河国渥美郡牟呂村大西(現在の愛知県豊橋市)の農家の長男として生まれた。父親は芳賀清次郎、母親はたけ。芳賀清次郎は農業を行う傍らで寺子屋も運営し、数学者である牧野伝蔵の死後には約80人の子弟を持っていた。保治も幼少期から勉学にいそしみ、父親から書を、牟呂八幡社の宮司である森田光尋や真福寺の住職である山田祖策から和漢学を学んだ。

1880年(明治13年)以後には明治新田の干拓工事に協力し、1887年(明治20年)には牟呂用水の建設に協力した。1892年(明治25年)には牟呂村における海苔養殖の可能性に気づき、1895年(明治28年)には豊川の河口に海苔採取場を建設した。同じく海苔養殖を手掛けていた宝飯郡前芝村(現在の豊橋市)の漁民から反発を受けたが、粘り強い話し合いで和解に達し、最終的には牟呂村や前芝村を含む8地区合同で採取場を建設している。やがて採取場を三河湾全域に広げ、1912年(明治45年)には三河海苔同業者組合を結成した。

芳賀は海苔養殖を手がけるほかに、六条潟においてアサリの養殖もおこなった。牟呂用水を利用した発電所を建設し、また精米所の建設に協力するなどした。牟呂村教育会長、渥美郡教育会長、渥美郡会議員、牟呂村長、渥美郡農会長、渥美郡町村会長などを歴任し、1924年(大正13年)には愛知県自治功労賞を受賞した。1925年(大正14年)には豊橋市牟呂大西町の素戔嗚神社に銅像が建立された。1934年(昭和9年)に78歳で死去した。

銅像[編集]

豊橋市牟呂町には「芳賀保治翁銅像」が建立されている。

関連項目[編集]

  • 杢野甚七 - 三河国における海苔養殖の先駆者。

参考文献[編集]

  • 本田勇夫「芳賀保治 三河乾海苔の創始者」『郷土ほりおこし 東三河の歴史』