般若心経

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般若心経(はんにゃしんきょう)とは、法相宗天台宗真言宗禅宗がおもに使用しているお経である。古くから日本の在家信者に愛唱されるポピュラーな大乗佛教の経典。『延命十句観音経』に次いで短い経文である。英訳などもあるが、日本国内では漢訳が普及している。

概要[編集]

日用経典の一つ。神社でも唱えることがあり、「仏説」を読まずに、「摩訶」から始める場合もある。ピッチ(音程)は全く変化しないが、頭の部分の「仏説」の「佛」だけ音程が完全4度(半音5つ)下である。

仏説摩訶般若波羅蜜多心ー経ー 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老タヒ亦無老タヒ尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罜礙無罜礙故遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経

般若心経には、JIS(旧JIS・新JIS) コードに入っていない文字が2つあり、「埵」と「罜」の二つの文字は、この2つの文字は、日本語文字として扱おうとすると「かな漢字変換」の段階で「?(クエスチョンマーク)」あるいは「〓(ゲタ)」の記号に変わってしまったため、かつては「外字」「環境依存文字」とされた。「タヒ」は? 「タヒ」も環境依存文字扱いとなると、通常の日本語文字では認識されない文字、外字・環境依存文字が「タヒ」と「埵」と「罜」の3つあるということになる。

漢字表記には、一部が違っているものもあり、統一されていない。「死」は「タヒ」、「罣」は「罜、罫」で代用される場合もある。「罣」も外字・環境依存文字である。

解釈[編集]

いわゆる「般若経」のひとつである。べつに難しいことは謂っておらず、「色(実在)は空(相互作用)と相対(「そうつい」。コインの両面である)」という話である。十大仏弟子の一人であり、「智慧第一」と云われたシャーリプットラに直接語られたとされ、「佛説」とされることもあるが、後世の創作であるかもしれず、それほど確たる根拠はない。
正式名称は「魔訶般若波羅蜜多心教(マハー・パーニヤー・パーラミター・プラジャニュー。「魔訶」は「大きい」「大いなる」(「摩訶不思議」の魔訶である)、「般若」は「智慧」(「般若湯」など)、「波羅蜜多」は「悟り」[1]、「心教」は経典)」とかいった意味であるという。のことをいうらしい。
ただし、いわゆる坊主の中には「色」を「色欲」、「空」を「空しい」と信じている者もいて、「下手な説法、屁一つ」とされる。うっかり信じて騙されないようにしたいところではあるが、学会講演と違って「質疑応答」の時間はないので説教を垂れて終わりである。 原文(漢訳)はいっぱんには「十七文字ひとくさり」とされるため、あまり意味までは踏みこまないことが多いが、括弧や句読点や空白や改行を含めると、おおむねこんな感じになる

 観自在菩薩、行 深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空度一切苦厄。
 舎利子、「色不異空」「空不異色」「色即是空」「空即是色」、受・想・行・識、亦復如是。
舎利子、是 諸法空相、「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」是故空中、無色・無受想行識、無「眼・耳・鼻・舌・身・意」、無「色・声・香・味・触」法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、乃至無老タヒ、亦無老タヒ尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得。
故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心、無「罜礙」無「罜礙」、故遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸佛依般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故。説般若波羅蜜多呪、即説呪曰
  羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経
なお、「舎利子」(イハ、シャーリプットラ)は必ずしもシャーリプットラに語りかけているわけではなく、経文を理解しようとしている「あなた」に語りかけているので、「自分自身に仏陀が語りかけているのだ」と解釈してもよいという。
読下し文では、
観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じた時に、「五蘊は皆空なり」と照見し、一切苦厄を度したもうた。
舎利子よ。色は空と異ならず、空は色と異ならない。ゆえに色はすなわち空であり、空はすなわち色である。受・想・行・識もまたかくの如しである。
舎利子よ。是は諸法は空の相であり、生まれることもなければ滅することもなく、汚れるとか清いとかも関係がなく、増えることもなければ滅することもない。それゆえすべては「空」の中にある。空がなければ色(実在)もなく、受・想・行・識もなく、「眼・耳・鼻・舌・身・意」といった六感もなく、「色・声・香・味・触」もなく、見える世界も感覚世界もない。無明もなく、また無明が尽きることもない。そして老や死もなく、老タヒが尽きることもない。無老死(無老タヒ)は、年を取らないことである。苦集滅道もなく、智もなけれ得もない。ゆえに所有すろこともなければ、得つこともない。
したがって菩提薩埵は般若波羅蜜に依る。心に罜礙(さしさわり、ふさがる)もなく、自由で開放されているがゆえに遠離の一切は顛倒夢想であり、究竟涅槃三世諸佛依般若波羅蜜多、是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪、能く一切の苦を除き、真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。すなわちそれを説く文言に曰く、
  羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
  (ガーティ・ガーティ・パラガーティ・バーディ・スヴァーハー。「逝ける者よ、逝ける者よ、彼岸に全く逝ける者よ、悟りよ、幸いなれ」)
となるが、後半はいろいろ面倒臭いので若干の手抜きがある。補遺・修正をお願いしたい。

注釈書[編集]

「非常に難解な経典」とされ、さまざまな注釈書類がつくられた。 この経典の注釈書を書いたインド人にはヴィマラミトラ、プラシャーストラセーナらがいる。

抄経説[編集]

Jan Nattier、Jayarava Attwoodらによって、般若心経は中国で編纂された「抄経」類なのではないかという説が主張されている。「抄経」とはすでに漢訳されている長ったらしい経典を嫌った中国人が、ダイジェスト版を作って代用したものであり、この抄経としての漢訳された『般若心経』がサンスクリット語(あるいはパーリ語)に再翻訳されて広まったという経路をたどったとする説もある。
Nattierの論文は日本語訳されているのでそれを読めば分かるが、ある程度説得力のある説である。しかし、この説に従ったとしてもなお解決しがたい問題が多くあるのも事実であり、肯定派と否定派の溝を埋めるのは困難である。
ちなみに「Attwoodは日本語が読めないので、日本人学者の書いた批判論文を直接読むことができず、ちょっとイラだっている」という風聞もあるらしい。

カバー[編集]

2010年に、初音ミクが「般若心経ポップ」という名前でカバーし、その後に、「般若心経ロック」がでてきた。

実用性[編集]

納豆を練るときに、回数を数えるのに便利である。
じつは経文を詠むときには「開経偈」「回向文」などがセットになっているので三百を越えるため、「練りすぎだろっ!」と言われそうであるが、パッケージを開けるときに「無上甚深微妙法 ……」と唱えはじめて納豆を練り、「願わくはこの功徳を以て一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に佛道を成ぜんことを願いたてまつる」と思いつつ納豆を供するというのが私の作法である。

  • 開経偈 - 「無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)、百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)、我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)、願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)」というものであるが、和文読下し文もあり、「無上甚深微妙の法は、百千万劫よりも遭遇(あ)い難し。我、今見聞し得受することを得たり。願わくは如来の真実義を解したまわんことを」のほうがカッコイイ。
  • 回向文 - 願わくはこの功徳を以て万人に施し、我らと衆生とともに佛道を解したまわんことを」である。柄肛門はキリスト教イスラム教の集会でも通用し、「アーメン(「その通りである」「同意!」「異義なし!」「そうだ、そうだ!」の意)」の声が掛かったりする。

脚注[編集]

  1. 「悟り」といっても、「悟ると全知全能になる」わけではなく、「理解の階梯を一歩登った」くらいの意味である。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『般若心境いろはがるた』

外部リンク[編集]