福澤百助

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福澤 百助(ふくざわ ひゃくすけ、寛政4年(1792年) - 天保7年6月18日1836年7月31日))は、江戸時代後期の中津藩士。福澤諭吉の実父。姓は福沢とも書かれる。

略歴[編集]

父は中村氏から養子に入り山奉行を務めた福澤兵左衛門で長男。母は福澤楽。実名は咸。号は半斎・子善[1]

幼少の頃から優れた学才があり、中津藩の野本雪巌に学んで藩校から褒賞が授けられたという。この学才を生かしての遊学を望んだが、家の家計の事情から断念して豊後国日出藩帆足万里に学んでいる。

文政2年(1819年)に2人扶持で御用所御取次に任命され、中津藩の会計を担当する元締方の下役となる。文政4年(1821年)に家督を相続し、文政5年(1822年)4月に中津藩士・橋本浜右衛門の長女・福澤順結婚する。ところが新婚5か月後の9月、藩命で回米方として大坂単身赴任することになる。この回米方の仕事は、江戸時代後期になって苦しい藩財政を大坂の有力商人から借財することで補填するいわゆる借財交渉が主であり、百助は大坂の豪商相手にその担当を務めている。天保4年(1833年)には中津藩主の名で大坂の豪商・加島屋久右衛門から借財している証文が残されている。だが、この役目がやはり嫌になったのか、百助は藩に対して早期の交代を望んでいる。回米方になって5年後には妻の順を大坂に呼び寄せたが、結局早期交代はかなわず在任のまま15年務めている。また、その在任中に小役人から供小姓、御厩方と出世した[1]。ちなみに御厩方は下級武士の中で最高職である。ちなみにこの間も給金を学資につぎ込み、13石2人扶持という微禄でありながら多くの書籍を購入し、その蔵書は1500冊という莫大なものに及んだという。

天保7年(1836年)6月18日に大坂で死去した[1]。45歳没。百助が小田部武右衛門に宛てた書状では故郷の中津に帰る日を楽しみにしていると述べているが、それはかなわなかった。墓所は中津の竜王の浜にあったが、現在は東京都府中の多磨霊園に改葬されている。法名は浄専院釈乗導居士。福澤家で法名に初めて院・居士を使用した例である。

なお、余りに急死であったため、その清廉な人柄から部下の不正をかばっての自殺説もある[1]。息子の諭吉は後年に父親の死因を脚気(「福沢諭吉子女之伝」)としているが、後に卒中と改めており[1]、どちらなのかは不明である。

人物像[編集]

福澤諭吉の記録によると、百助は清廉潔白な人柄であったとしている(『福沢氏古銭配分之記』)。百助自身は藩の役人として出世するより「読書一偏の学者」を望んでおり、回米方の役目は不本意であったという(『福翁自伝』)。百助はそのため、藩に学資を借用して遊学したいと希望したが、藩は学資借用に前例が無いとして認めなかった。とはいえ、大坂にいる間に高名な頼山陽野田笛浦などと交流しており、そのためか文書のうまさは相当なもので、同僚の高谷竜洲から「中津で百助の文章のうまさの右に出る者はいないほど名声が高い」と評している[2]

諭吉は父を「謹直にして才力あり。好で書を読む」と評している(『福沢諭吉子女之伝』)。明治18年(1885年)に諭吉は父の50回忌法要を中津の明蓮寺で行なっている[2]

百助は金銭を見るのも汚らわしいと嫌っており、そのため子供が九九を習うと勘定のことを覚えるとはもってのほかとして辞めさせたという。

子孫[編集]

順との間に2男3女が生まれている。

脚注[編集]

  1. a b c d e 『福澤諭吉事典』 ISBN 9784766418002。P564
  2. a b 『福澤諭吉事典』 ISBN 9784766418002。P565

参考文献[編集]