福永洋一
福永 洋一 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県高知市 |
生年月日 | 1948年12月18日(76歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 | 京都→栗東・武田文吾 |
初免許年 | 1968年 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1981年 |
福永 洋一 (ふくなが よういち、1948年12月18日 - )とは、日本中央競馬会 (JRA) の元騎手である。
「天才」と称えられて一世を風靡したが、不運な事故で引退を余儀なくされた悲運の名手。息子は元騎手で調教師の福永祐一。
人物・エピソード[編集]
実家は高知の大地主だったが、戦後の農地解放などで没落。父は龐統癖の持ち主、母は幼い洋一を置いて行方不明になり、洋一は一時姉に育てられた。姉は高知競馬場の騎手・松岡利男と結婚したことで福永家と競馬界の縁が結ばれた。
洋一は先に中央競馬で騎手になっていた兄、甲の師匠である武平三を頼って中学校在学中に京都府へ移住。中学卒業後に馬事公苑騎手養成長期課程を受験して合格、1968年3月にデビューを迎えた。
逃げ馬を追い込み戦術で勝たせる、追い込み馬を逃げて勝たせるなど常識では考えられない騎乗で勝利を重ねた。特に、
はよく引き合いに出される。
当時の馬券師達も如何に平凡な馬であろうと高率で2着、3着に入線する洋一のことを信頼し、普通なら即消しとなる馬でも洋一が乗るならとりあえず買っておけとされるほどの影響力を持っていた。
1979年3月4日、阪神開催の毎日杯でマリージョーイに騎乗した。最後の直線で前を走っていたハクヨーカツヒデが落馬し、それに巻き込まれる形で洋一も落馬。背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切って意識不明に陥ってしまう。この落馬事故で脳に深刻なダメージを負って後遺症が残り、リハビリによって馬に乗れるぐらいまでに回復することはできたが、騎手免許の更新には間に合わず、1981年に引退した。
2009年8月、高知競馬場で開かれたトークショーに息子の祐一が参加。その中で「生まれ育った高知は父親にとって特別な場所。おやじの名前がタイトルについたレースができたら」と発言したことがきっかけで、2010年に高知競馬独自の重賞である福永洋一記念が創設された。