石田博文
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石田 博文(1941年[1] - )は、チッソ労働者、合化労連新日窒労組執行委員。
経歴[編集]
熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)生まれ。1956年中学校卒業、新日本窒素肥料(1965年からチッソ)に入社、電気部に配属。組合の機関紙部員、青年婦人部役員・部長を務める[1]。1962年新日窒が提案した安定賃金制度(4年間賃上げでストをしないことと引き替えに、同業他社を上回る賃上げを約束する)を拒否して組合がストに入り、新日窒はロックアウト、第二組合の結成で対抗(安定賃金反対闘争)。1963年熊本地労委の斡旋で183日間のストが終結した後、不当配転、「希望退職」説得を受けた[2]。1965年合化労連青年婦人部長(専従)。1967年から4期、合化労連新日窒労組執行委員(教宣部)[1]。1968年8月30日、合化労連新日窒労組第31回定期大会で、後に「恥宣言」として有名になる「何もしてこなかったことを恥とし水俣病と斗う!」と題する大会決議を採択。「恥宣言」は岡本達明が起草し[3]、石田が大会で読み上げ提案した[4]。1971年新日窒労組の地区組織・丸島拠点長[1]。チッソ在職中の1972年4月、水俣病第一次訴訟で原告側の証人として証言する[1][2]。同年チッソを退職[1]。
1976年時点で社青同副委員長[5]。2003年時点で新社会党執行委員[6]。2011年時点で新社会党中央執行委員[7]。大阪社青同専従[7]、社会主義協会関西支局員なども務めた[8]。
著書[編集]
- 『抵抗のなかから――職場からの組織づくり』(日本社会主義青年同盟中央委員会[社青同学習シリーズ]、1981年/復刻版、新社会党熊本県本部[社青同学習シリーズ]、2001年)
- 『水俣病と労働者――チッソ水俣の労働者は水俣病とどう向きあったのか』(石田博文、2013年)
出典[編集]
- ↑ a b c d e f 第8期 水俣学講義 第10回/熊本展シンポジウム 「水俣病とむきあった労働者」(PDF)熊本学園大学水俣学研究センター、2009年12月12日
- ↑ a b 石田博文「チッソ労働者は水俣病にどう向き合ったか(PDF)」熊本学園大学水俣学研究センター、2013年11月14日
- ↑ 石井まこと「水俣病問題に向き合う労働組合の成立と労使関係史上の意義(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』No.676、2015年2月
- ↑ 佐藤和之「【書評】石田博文著『水俣病と労働者-チッソ水俣の労働者は水俣病とどう向きあったのか』」レイバーネット日本、2013年8月2日
- ↑ 『全国各種団体名鑑 1976・1977年版(第6版)』ミカミマーケティング・インスティチュート、1976年
- ↑ 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 第73集(2003年版)』旬報社、2003年
- ↑ a b 団塊の世代が動けば世の中はまだまだ変わる。 石田博文さんを囲む会で。 平和とくらし #茨木市議会議員 #山下けいきの日々是好日、2011年2月26日
- ↑ 2013四国連鎖社会主義講演会 専従日誌、2013年9月11日