真田熊之助
ナビゲーションに移動
検索に移動
真田 熊之助(さなだ くまのすけ、寛永9年(1632年)5月 - 寛永15年11月6日(1638年12月11日))は、江戸時代前期の大名。上野国沼田藩の第3代藩主。第2代藩主・真田信吉の長男。異母弟に真田信利。真田昌幸の曽孫。
生涯 [編集]
真田信吉とその正室・酒井忠世の娘との間の子とされている(『滋野世紀』)。ただ他の諸記録では側室の子とされている。なお、庶子であったことから熊之助の存在は祖父の真田信之には知らされていなかったとされている。
父の信吉が寛永11年(1634年)に死去したため、わずか3歳で家督を継いで第3代藩主となる。幼少のために藩政を見ることは不可能であり、叔父の真田信政が後見した。熊之助は生来から病弱で、寛永15年(1638年)11月6日に夭折した。7歳没。
法名は一陽院殿梅心玄香大童子。ただし『滋野世紀』では源光院殿とされている。墓所は父と同じ群馬県沼田市材木町甲の天桂寺とされるが、ここに墓所は確認できない。ただし『天桂寺過去帳』にはその記録がある。また、弟の信利によって群馬県みなかみ町荒巻の玄香院に菩提寺が建立され、同寺の跡地に墓が残っている。
7歳で当然子があるはずが無く、弟の信利も幼少だったため、叔父の信正が家督を継承した。