独孤皇后

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独孤皇后(どっここうごう、553年 - 602年)は、の初代皇帝である文帝皇后。第2代皇帝・煬帝の生母。姓名は独孤伽羅。賢婦人だったが性格に多少問題があったことで有名である。姉はの高祖李淵の生母である[1]

生涯[編集]

父は武川鎮軍閥の名門で鮮卑族の独孤信[2]。楊堅との結婚は14歳の時で政略結婚であった[3]。独孤夫人は非常に聡明であったが気も強くて嫉妬深く、楊堅に対して側室を置くことを絶対に許さなかった。ある時、楊堅が美貌の女性として知られた尉遅熾繁を後宮に入れた際、それを知った独孤は激怒して楊堅の留守中に委細構わず彼女を殺害してしまった[3]。楊堅は部下も連れずに馬に乗って20里(約10キロ)離れた山中まで疾駆し、後を追ってきた重臣の楊素高熲に対して「我は天子(皇帝)であるのに、何一つ思いのままにならないのか」とまで言ったという[3][4]。このように楊堅は独孤の存命中はその手足を厳しく押さえつけられていた。

一方で独孤は政治にも介入し、楊堅が北周から皇位を奪って自分が即位するべきか、それともあくまで北周を立てるべきか迷っていた際、「もうここまで来た以上は猛獣の背中に乗ったようなものですから途中で降りることはできません。やるべきです」と言って迷う楊堅を叱咤して皇位の禅譲を決意させた[3]。また楊堅が文帝として朝廷に臨む際には共に車に乗って同行し、宮門で待機して宦官を使って朝廷の様子を探らせ、文帝に対して自ら指令を発することもあったという[3]。このため周囲から文帝と皇后は「二聖」と称されほとんど皇帝同様に見られており、朝廷で政務が終了すると文帝と共に奥御殿に戻ったという[3]

独孤は楊堅との間に5男5女(楊勇、楊広(後の煬帝)、楊俊楊秀楊諒、楽平公主(楊麗華、北周の宣帝の皇后) 、蘭陵公主(楊阿五)、広平公主)に恵まれた[3]。一人の夫人でこれだけ子宝に恵まれたのは異例だといってもよい。

独孤は一夫一妻を尊重し、他の女性にうつつを抜かす者は我が子や重臣でも容赦しなかった。重臣の高熲の夫人が死去したので彼女は文帝を通じて再婚をさせようとしたが、高熲は老齢を理由に固辞した[4]。ところがその直後に高熲の側室が子供を産んでしまったので、独孤にすれば面目を潰されたも同然で激怒し、文帝を誘導して高熲を失脚させた[4]。文帝の皇太子は長男の楊勇であったが、彼も正室を虐待して側室を愛するなど乱脈な女性関係が目立ったため、独孤は激怒して文帝に進言して楊勇も廃太子にしてしまった[4]。一方でこの独孤の性格は利用されることにも繋がった。次男の楊広は本当は女性関係も乱脈で贅沢好きであったが、皇太子の地位を得るためにご機嫌取りを行なって独孤の関心を得た。そのため楊勇が廃されると、代わって楊広が皇太子に指名された。

602年に死去[5]。享年50[5]

独孤の死後、自由を手に入れた文帝は後宮に頻繁に入り浸るようになり、その荒淫が原因で2年後に崩御することになる。なお、文帝は崩御する直前に独孤が推挙した次男・楊広の本性を知って「独孤、我を誤てり(独孤は私を失敗させた)」と激怒して叫んだという[6]

脚注[編集]

  1. 井波『中国人物伝Ⅲ、大王朝の興亡、隋・唐 - 宋・元』P12
  2. 井波『中国人物伝Ⅲ、大王朝の興亡、隋・唐 - 宋・元』P5
  3. a b c d e f g 井波『中国人物伝Ⅲ、大王朝の興亡、隋・唐 - 宋・元』P7
  4. a b c d 井波『中国人物伝Ⅲ、大王朝の興亡、隋・唐 - 宋・元』P8
  5. a b 井波『中国人物伝Ⅲ、大王朝の興亡、隋・唐 - 宋・元』P10
  6. 井波『中国人物伝Ⅲ、大王朝の興亡、隋・唐 - 宋・元』P11

参考文献[編集]