尉遅熾繁

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尉遅 熾繁(うっち しょくはん、566年 - 595年)は、中国北周の名将・尉遅迥の孫娘。北周宣帝の妃となることを強いられ、後に楊堅の文帝)の妾となったと考えられる。

経歴[編集]

皇帝に泥酔させられ強姦される[編集]

美少女として知られ、大貴族の宇文亮の子である宇文温に嫁いだ。しかし、たまたま慣例にしたがって宮殿にあがった際に暴君の宣帝に目をつけられてしまう。宣帝は20歳ほどで極めて好色だった。13歳ほどの幼い少女だった尉遅熾繁は、その場で宣帝に強姦されることとなった[1]。一説によれば、尉遅熾繁は一室に連れ込まれ二人きりになったところを、酒を強引に勧められ、泥酔して意識を失ったところを、犯されたのだという。目を覚ましたとき、すでに彼女は全裸で犯されている最中で、貞操を汚されており、泣きながら慈悲を乞うたが、もはやどうしようもなくそのままもてあそばれるしかなかった。

挙句、580年、宇文亮が叛乱を起こして敗死すると、まだ少年だった宇文温も処刑されてしまう。熾繁は後宮に連行され、宣帝の妃とされた。同年に天左大皇后に立てられたが、これは特別なものではなく、宣帝は同時に5人ものの皇后を置いて荒淫に走った。

同年5月、宣帝が死去するが、直後に祖父である尉遅迥が、専権を極めていた楊堅に対して反旗を翻した。尉遅迥の挙兵は失敗し、熾繁の一族は誅殺されてしまう。581年に北周は滅び、楊堅が皇帝となって隋を建国した。その後、『周書』では、熾繁は出家して尼となり、華首と改名したことのみ記されている。

祖父の仇に、女奴隷として犯される[編集]

しかし、『隋書』に尉遅迥の孫娘のことが記録されており、熾繁と同一人物だと考えられる[2]が、『隋書』では彼女の末路が描かれている[3]。熾繁は尉遅迥の反乱後も宮中にいた。すでに北周の一族は滅ぼされ、尉遅氏の勢力も消滅した状態で、かつての皇后といえどもその地位は高くなかったと思われる。反乱者の一族は婢(女奴隷)として国家のものとされることもあるから、宮女・女奴隷のような形で仕えていたのかもしれない。

しかし、美貌の熾繁はまたも文帝(楊堅)の目にとまった。彼女の姿を一目見て欲情した皇帝は、熾繁を犯した。楊堅は祖父の仇であり、彼の妾となることが熾繁の意に沿わないものであったことは想像に難くない。

その後も、熾繁はひそかに文帝の妾としての境遇を送っていたが、文帝の当時の皇后、独孤氏は嫉妬深く、夫の側に近づくことを許そうとしなかった。やがて熾繁の存在が独孤皇后に露見した。皇后は美しく文帝の寵愛を受けていた熾繁の存在を許容することはできなかった。こうして29歳の熾繁は暗殺され、悲惨な最期を遂げた。

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. 『周書』 列伝第一皇后「以宗婦例入朝,帝逼而幸之」
  2. 塚本青史の小説『煬帝』もこの二人が同一人物であるとする説をとっている。
  3. 『隋書』列伝后妃「尉遲迥女孫有美色、先在宮中。上於仁壽宮見而悅之、因此得幸。后伺上聽朝、陰殺之。