沢本楠矢
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沢本 楠矢(さわもと くすや、安政2年12月15日(1856年1月22日) - 明治37年(1904年)10月1日)は、土佐国(現在の高知県)出身の実業家。3男に沢本嘉春がいる。沢本は澤本とも書かれる。
生涯[編集]
土佐藩の長岡郡介良村良野(現在の高知市)に生まれる。武士の生まれであったが、農家に転属して成功をおさめた家系で、楠矢が結婚した当時には6、7ヘクタールの田地を所有していた。
明治29年(1896年)に高知県内の農村が疲弊を極めたため、救済のため北光社を組織する。北海道開拓事業で活路を開くべく楠矢は画策し、その中心人物として同社の副社長に就任し、社長の坂本直寛(坂本竜馬の甥)を助けた[1]。のちに坂本直寛の跡を継ぎ第2代社長となり、北見市の発展に尽力した。
具体的には北見市の開拓の基礎を作り、池北線の創設、河川道路の改修などである。池北線の早期創設のために上京して鉄道部長に会見して北海道庁長官に早期創設のための陳述書を提出したりするなど、多方面から貢献した。その甲斐もあり、明治44年(1911年)に敷設された。
明治37年(1904年)10月1日に死去。50歳没。死後、北見市における様々な活動を住民は感謝し、その功績のため、北見市北光に楠弥の記念碑が置かれることになった。また、楠矢の実業家としての才能は3男の嘉春に受け継がれた。
脚注[編集]
- ↑ 『高知経済人列伝』。鍋島高明編著。2016年7月。高知新聞社。P144