林民雄
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林 民雄(はやし たみお、慶応元年(1865年) - 昭和11年(1936年))は、高知県出身の日本の実業家。
生涯[編集]
現在の高知市出身で、土佐藩の藩士の長男として生まれる[1]。
大学予備門(現在の東大の前身)を卒業し、明治18年(1885年)に渡米し、ペンシルベニア大学を卒業して、明治24年(1891年)に日本郵船に入社する。横浜や上海など各支店長、船客課長などを歴任し、明治44年(1911年)に専務取締役に就任する。当時の評価は「怜悧だが敵を作らない。ただし味方もいなかった」である。実業之世界社が大正3年(1914年)に読者の人気投票で選びだした「実業家50傑」(60歳未満)で3225票、富士紡の和田豊治や福沢桃介、武藤山治、松方幸次郎、岩下清周、久原房之助と共に10傑入りしている。当時の林の人物は「深謀遠慮に富み、知恵もあり、腹もできており、近藤廉平社長、加藤正義副社長を補佐し、その智嚢となり、郵船を盤石の固きに置いている。岩崎久弥も彼に感服している」と評されている[1]。
将来的には社長職就任も期待されていたが、大正6年(1917年)に突如として退任した。これには日本郵船の相談役だった渋沢栄一すら驚いて「定時総会の席上で林の辞表が突然発表され、世間は大分やかましく、かれこれ問題にしていたらしく見受ける」と当時の記録に書いているほどである。日本が中国進出を強めた際には御用船事務、総督を務めている。昭和11年(1936年)に71歳で死去[1]。