新渡戸勢喜
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新渡戸 勢喜(にとべ せき、文政6年7月17日(1823年8月22日) - 明治13年(1880年)7月18日)は、日本の女性。教育者である新渡戸稲造の母[1]。
経歴[編集]
現在の盛岡市出身。父は陸奥国盛岡藩士の伊東弾右衛門で次女[1]。
新渡戸稲造が幼少の頃は乱暴者だったので、この母親は育児に手を焼いていたという。稲造が上京して英語学校時代、札幌農学校時代を過ごしていた際に「お前は家を慕うような弱い心ではなりませぬ。大事な勉強があるのを努々忘れてはなりませぬ。そのために強い心でいなくてはいけません」という手紙を送って励ましている[1]。
明治13年(1880年)7月18日に56歳で死去したが、母の死に稲造は2日違いで間に合わなかったという。その後、稲造は母親の命日が来ると、必ず自宅の一室に閉じこもって生前の母親からの手紙を読むことをならわしとしたという。稲造の没後に発刊された『幼き日の思い出』には「新渡戸せき子の思い出に捧ぐ」と献辞されている[1]。
夫は盛岡藩士の新渡戸十次郎。子は稲造のほか、新渡戸里喜、新渡戸七郎、安村峯、新渡戸はつ、新渡戸いま、河野喜佐、新渡戸道郎と多くの子女に恵まれている。