小山誠三

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小山 誠三(こやま せいぞう、1930年4月30日 - 2012年9月21日)は、埼玉県飯能市長(3期、1989年8月 - 2001年8月)。

経歴[編集]

埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)出身[1]。1948年埼玉県立川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)卒業[2]。加治青年団副団長(昭和28・29年度)、団長(昭和30年度)、飯能市連合青年団長(昭和31年度)、埼玉県連合青年団常任理事(昭和31年度)[3]。1960~1971年農業(酪農の共同経営)、1972年からガソリンスタンド経営、1989年からスポーツセンター(スイミングスクール)経営[4]。1977年飯能市議会議員(3期)。1989年8月~2001年8月飯能市長(3期)。

2012年9月21日、肺炎のため死去、82歳[5]

人物[編集]

  • 文学研究者の小沢俊郎は旧制川越中学校時代の恩師の1人[2]
  • 市民運動家の吉川勇一は旧制川越中学校の同級生で親友。吉川によると「私のベ平連活動の頃には、それへの支持、応援の意見が伝えられ」、「市民の意見30の会・東京にも参加し、また、憲法問題での意見広告運動にも参加してくれていました」とのことである[5]
  • 1977年に飯能市内の天覧山多峯主山一帯に開発計画が持ち上がった際、新井清寿(郷土史家・元小学校長)が代表となって結成された「天覧山付近の自然を守る会」の世話人の1人だった[6]。1987年に開発予定地の4分の1を緑地として保全することができたが、残りの土地は市街化区域編入を余儀なくされた。新井没後の1995年に新たな開発計画が持ち上がった際、「「自然を守る会」の旗頭のひとり」だった小山は「市長として開発を進める側のトップ」になっていた[7]。開発に反対する市民は「天覧山・多峯主山の自然を守る会」を結成した。2005年に天覧山・多峯主山一帯に計画されていた宅地開発は中止となった。
  • 飯能市史編纂協力員、飯能市郷土史研究会会員[8]。「戦争体験を語りつぐ会」事務局[2]

著書[編集]

  • 『埼玉県の民話と伝説 入間編』(栗原仲道神山健吉共編、有峰書店、1977年)
  • 『径――小澤俊郎遺文抄』(小澤郁郎共編、刀水書房・小山誠三・小澤郁郎、1983年)

出典[編集]

  1. 日外アソシエーツ編『現代政治家人名事典』日外アソシエーツ、1999年
  2. a b c 埼玉県立川越高等学校創立八十周年記念誌編集委員会編『創立八十周年記念誌』埼玉県立川越高等学校、1979年
  3. 埼玉県連合青年団史編集委員会編著『埼玉県連合青年団史』埼玉県連合青年団、1985年
  4. 「紙上インタビュー――小山誠三 埼玉県飯能市長」『調和―基地と住民―』緑風号(通巻40号)、防衛施設周辺整備協会、1991年6月
  5. a b News240 元飯能市長、小山誠三さん逝去。私の旧制中学校の同級で親友でした。 吉川勇一の個人ホームページ、2012年9月25日
  6. 天覧山付近の自然を守る会編著『緑のまちと市民たち――市民が守った飯能の自然』三一書房、1980年
  7. 浅野正敏「代表より」『やませみ』42号 、NPO法人天覧山・多峯主山の自然を守る会、2005年4月1日
  8. 栗原仲道、小山誠三、神山健吉編『埼玉県の民話と伝説 入間編』有峰書店、1977年

外部リンク[編集]