手嶋正毅

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手嶋 正毅(てじま まさき、1913年2月15日 - 1970年8月13日)は、マルクス経済学者。

経歴[編集]

横浜吉野町の貧民街で日雇い人夫の子として生まれる[1]。1932年松江高等学校文科乙類卒業[2]。在学中に非合法のRS(読書会)で社会科学の本を読み経済学・哲学・歴史に興味を持つ[1]。1935年京都帝国大学経済学部経済学科卒業[2]。京大で蜷川虎三に師事[3]。卒業後は満鉄総務部資料課に勤務し[2]中国の調査・研究に従事[4]天野元之助芝池靖夫らとまとめた『中支の民船業――蘇州民船実態調査報告』(南滿洲鐵道株式會社調査部編、博文館、1943年)は文部省の良書推薦に指定されたが、のちに「反戦思想の廉で内地へ強制送還を受ける証拠の一つ」となった[1]。1944年に横浜事件に連座して検挙[5]。敗戦後に帰国[4]。1947年配炭公団大阪配炭局業務部統計課。1951年大阪府立商工経済研究所嘱託。1952年大阪市立大学経済研究所嘱託。1953年広島県立産業労働科学研究所主査。1954年広島大学講師(教育学部福山分校)、1957年助教授(皆実分校)、1963年教授(教養部)。1964年立命館大学経済学部教授[2]。日本経済論を担当[4]。同年京都府教育委員(兼務)[2]。1966年立命館大学協議員[5]。1970年4-6月立命館大学経済学部長[2]。1970年「日本国家独占資本主義論」で経済学博士(九州大学[6]。1970年8月13日に胃潰瘍のため死去[2]、57歳没。

人物[編集]

国家独占資本主義論の分野における開拓者的先駆者で[7]井上晴丸につづく著名な研究者[4]今井則義井汲卓一と国家独占資本主義をめぐって論争し、構造改革論を批判した[3]。『経済評論』の常連執筆者であった[4]。手嶋は自身の研究業績を(1)マニュファクチュア研究、(2)産業研究、(3)賃金論研究、(4)国家独占資本主義研究の4つに整理している[1]後藤靖は手島の研究業績を(1)1952年から1957年の下請工業や地方産業の実態調査・研究、(2)1957年から1960年のマニュファクチュアの研究、(3)1961年から亡くなるまでの国家独占資本主義の研究の3つの段階に区切っている[5]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『日本国家独占資本主義論』(有斐閣、1966年)

編著[編集]

  • 『経済学の基礎――所有の歴史』(編、有斐閣[有斐閣双書]、1968年)

訳書[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 手嶋正毅「遺稿・遺稿ノートPDF」『立命館経済学』第19巻第4号、1970年4月
  2. a b c d e f g 故手嶋正毅教授略歴・主要著作目録PDF」『立命館経済学』第19巻第4号、1970年4月
  3. a b 池上惇「手嶋教授の国家独占資本主義論PDF」『立命館経済学』第19巻第4号、1970年4月
  4. a b c d e 戸木田嘉久「一九六〇年代の経済学部と経営学部 : 忘れえぬ人々、その学問と教育」『立命館百年史紀要』第13巻、2005年3月
  5. a b c 後藤靖「手嶋教授の人柄と学問PDF」『立命館経済学』第19巻第4号、1970年4月
  6. CiNii 博士論文
  7. 足立政男「故手嶋正毅先生追悼の言葉PDF」『立命館経済学』第19巻第4号、1970年4月