李 希烈(り きれつ、? - 786年[1])は、李希烈の乱を引き起こした指導者。楚の皇帝(在位:783年?[2] - 786年[1])。
唐に仕え、安史の乱において各地を転戦して節度使となる[1]。781年に徳宗の時代に諸国の節度使が反乱を起こすと、李希烈は徳宗に従って反乱を起こした節度使を攻撃する[1]。ところが782年になると逆に反乱軍に通じて徳宗から離反[1]。各地の節度使が唐の攻撃により鎮定されても反乱を続け、帝位に即位して国号を「大楚」とした[1]。しかし786年、部下の陳仙奇により毒殺された[1]。