朱泚
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朱 泚(しゅ せい、742年 - 784年[1])は、唐時代の朱泚の乱における反乱軍の指導者。漢の皇帝(在位:782年 - 784年[1])を称したが、唐軍に敗れて殺害された。
生涯[編集]
父は朱懐珪といい、范陽節度使の家臣であった[1]。朱泚は唐に仕えて安史の乱で軍功を立てた。この功績により廬龍節度使に任命された[1]。
徳宗の時代に各地の節度使が反乱を起こすと、朱泚はその鎮圧を命じられた[1]。ところが官軍の待遇が劣悪だったために兵士が怒り、朱泚はその兵士らに擁立されて反乱を起こした[1]。朱泚は長安を奪うと自ら「大秦皇帝」を自称し、国号を漢と定め、天皇を称した[1]。
徳宗は吐蕃と連合して反撃し、この連合軍の反撃を受けた朱泚は敗れて部下に殺された。享年42。