広島城天守閣
広島城天守閣(ひろしまじょうてんしゅかく)とは、広島城内にある建造物。
概要[編集]
初代・二代・三代共に五層六階の造りであり、旧国宝指定。1945年の原子爆弾による焼失以降、2代三代と続く。石垣合わせ全長39メートル。第一層は3メートル80センチ、第二層は4メートル90センチ、第三層は5メートル、第四層は5メートル70センチ、第五層は7メートル20センチ[1]。石垣の高さは12メートル40センチ。第三層からは大阪城の造りに似ている。
歴史[編集]
初代は1589年の毛利輝元による広島城建造に伴って建てられた5層6階の天守閣。現在のものとは窓の形が少し違い、長方形となっている。1931年に天守閣を含めて国宝に指定された。1945年8月6日に原子爆弾が投下されて天守閣は倒壊して、無惨に木材と瓦だけが残った。1952年、広島市体育文化博覧会の一環として仮設天守が再建されたが、破風・鯱・窓などの形が全く違う。石垣の正方形とは合わず、天守の形は長方形に似ているような気もする。元の天守よりも小さく、福山城天守閣に似ている。
この二代天守は1952年3月25日から6月3日にかけて建造され、半年も建っていなかった。なんと6月3日には天守は全面解体され、その後3代目天守が立つこととなる。この天守に対して呆れる思いもあると思うが、そもそものところ原子爆弾投下当時は城全体が破壊されて死体と血液が浮くお堀と石垣のみになったのだから、仮設天守が立つだけでも広島市としての功績はかなり大きかった。三代天守が雄大に立つ姿は広島市民にとって勇気と希望を与えるものであり、たったの5ヶ月だけでも広島市民の親しむ場所となった。[2]
二代天守は「スイッチ・バック・レールウェイ」なるものがあり、天守閣の南側に乗り場があった。小田原城の遊園地構想とも似ていて、復興した広島城の象徴の一つとなった。
1958年、松本正夫を総指揮官として三代天守が竣工した。内部は広島の歴史博物館となっている。
小天守[編集]
天守建造期、小天守と呼ばれる大天守と廊下で連結している小天守が南と東に二つ大きくあった。姫路城を模したのかとも思え、南小天守東少天守共に三層三階、千鳥破風がひとつ。明治時代に何らかの理由で取り壊されている為、小天守自体は旧国宝には指定されていない[3]。
脚注[編集]
- ↑ 尚、屋根裏を含む
- ↑ しろうや!広島城 No.50
- ↑ 尚、小天守跡は旧国宝指定